空海入門

 

空海入門―いま光彩を放つ

空海入門―いま光彩を放つ"まず飛び込め"の方法 (ノン・ブック)

 

空海(774-835/宝亀5-承和2)=地方豪族の三男。庶民派。十八で貴族の通う大学へ。中退し、二十四で『三教指帰』(さんごうしいき)を著述した以外、三十一で唐に渡るまでの詳細は不明。

 

徹頭徹尾、ほとけさまをまねて、ほとけさまになりきれば、われわれはほとけさまではなかろうか・・・・・・。

真夜中を、インドから日本に飛んでいる飛行機の中で、わたしはそんなことを考えていた。そして、ここまで考えてきて、わたしは気がついたのだ。

ーーそうだ! これが密教なのだ! と。

 

密教以外の仏教=顕教(けんぎょう)

顕教=(修行を積んで)仏になるための教え

密教=いきなり仏になって、そのまま、仏になりきって生きるための教え

 

密教とは、いわばかやくごはんのようなごたまぜの仏教にすぎなかったのだ。それを空海が独自の「視座」から眺めて、

密教ーー仏になりきって生きる仏教

と定義し、その立場からわれわれに密教を教えてくれたのである。

 

■日本語では、「まね」=「学ぶ」

まねをしながら、そのうちに自分のものが出来上がる。はじめから自分の独自性を出そうとしたって、うまくいくものではない。変に西洋かぶれをして、まねを嫌っていると、日本人の場合には失敗するほうが多いのである。

 

(菩提達磨)=目的(X)を忘れて、手段(A)に打ち込め!Aそのものを目的にしろ!(例:X=功徳A=写経、功徳のための写経に功徳などない)

密教(空海)=唐に渡ろうとしたとき、天竺にいくことを考える。いつでも、次の次の目的を持つ。空海が天竺を考えても、渡唐を手段にしていない。空海においては、船に乗ったとたん、もう唐に渡っているのだ。彼は、「終わり」から出発している。それが密教である。仏陀になるのが、普通には、仏教の「終わり」である。しかし、空海密教は、仏陀になったところから出発している。

 

空海仏陀になったのは、「衆生済度」のため。

 

密教は「仏凡一如」、凡夫は仏に合一すればよい。修行ではなく、ただ飛び込めばよい。それが空海の悟りであった。そして、それがわかれば、もうインドに行く必要はなく、あとは細かな方法を教わればよいだけである。

恵果が方法・テクニックを教授し、空海がその哲学的な意味づけを明かす。二人は仏が仏に向き合う「唯仏与仏」であったのかもしれない。

 

■恵果死去、二十年の留学を二年で帰国し、また二年程山に籠もる。

 

空海=天才。方法論なく、いきなりすっと、そこに到達してしまう。

仏教=(密教/顕教(小乗/大乗))

最澄=文献、方法論から。文献を空海に借りようとするが、空海には文献からというのが理解出来ないため、まずは到達してからと激しく拒否され、喧嘩別れ。

仏教=(小乗/大乗(顕教/密教))

 

空海は「超人」。その役割は「超越者」ーーこの場合は釈尊ーーが示した峻険なみちを踏破すること。そうすると後に第二第三の踏破者、体系化する者が表れる。四百年後の鎌倉時代法然(1133-1212/浄土宗)、親鸞(1173-1262/浄土真宗)、道元(1200-1253/曹洞宗)、日蓮(1222-1282/日蓮宗)が出現。皆比叡山に上った、最澄天台宗の系統からというのが皮肉である。空海高野山からは偉材は出ていない。

 

密教=「身口意の三密」

身(しん)は身体、口(く)は言語、意(い)は心。

空海=三密すべて仏陀になりきる。全体的な仏陀との合一。

鎌倉時代の高僧は三密をバラバラに。

法然=口密強調。「南無阿弥陀仏」の念仏をとなえよ!

親鸞=意密強調。師の法然は念仏に重きを置いたが、「信心」だけでよいと、こころを強調。

道元=身密強調。修行に耐えられる時点で仏陀。「祗管打坐(しかんだざ)」ひたすらに坐禅せよ!

日蓮=口密強調。「南無妙法蓮華経」のお題目をとなえよ!

 

密教は、いきなり仏陀になって、仏陀と合一してからはじまる仏教のため、あまりやることがない。しかし、空海はさまざまな仏道修行以外の世俗の仕事に手をだし、忙しくしていた。ある意味で、密教というのは、俗事を仏道だと思って一生懸命にやる仏教かもしれない・・・・・・。

 

弘仁十三年(822/空海49)、最澄入滅。翌年、高野山へ住みつかせないため、東寺が空海に給預。当時、一寺一宗の慣行は無かったが、真言宗の寺とし、庶民の学校(綜芸種智院)もつくる。

 

高野山

大日如来=宇宙仏、宇宙そのもの=大日如来の浄土。人間の住む世界(天竺/唐/日本)=すべて浄土。浄土はいたるところにというのが、空海の考え方であったが、顕教人間を密教人間に変身させる手段としての、山岳を母体と見る信仰、ほとけの子宮となる山岳をつくるため、弘仁七年(816/空海43)高野山を開創する。