脳はこんなに悩ましい

 

脳はこんなに悩ましい (新潮文庫)

脳はこんなに悩ましい (新潮文庫)

 

目的の「物」より「値段」に反応=価値の転移=「抽象化」、実体からの解放

 

直感で「心地いい」方向で作っていくと、自ずと「べき分布」に従ってしまう。芸術家本人は「感性」の基作品を生み出したつもりでも、なにせ、脳自体が自然の一部。脳の産物芸術作品が自然のルールに従うのは当然かもしれない。

 

「言語表現できるから、伝えたいことが生まれる」。言葉をつなぐうち、霧が晴れ、意見が明確に。出力から内面が形成される。出力が原因で、結果がついてくる。

 

脳の活動、興奮と抑制が同時、ブレーキかけながらアクセル。重量挙げの選手は、その抑制だけを取り除く訓練をしている。

 

脳は身体の形状を正確には把握していない。筋肉・皮膚の感覚・視覚でモニターし、自分の「輪郭」を創造=状況により体の境界が自在に変わる。この能力により、車の運転が可能となる。運転中の身体は車全体に拡張している。テニスの場合、手の輪郭がラケットまで延長する必要がある。身体適応力・空間的認知・客観視力。

 

脳ができたのは、生物にとって最近の話。脳と身体は馴染んでいない。脳が生まれて以降、ヘビからヒトまで、身体の変化のスピードが速く、脳は身体への適応を保留しているかもしれない。

「身体はこんな形をしている」という固定観念を持たないよう脳は作られていて、生まれてあとの体験を通じて、自分の乗り物である「身体」を認知してゆく。だから、身体境界は柔軟で、錯覚が生まれる余地を残しているのかもしれない。

 

朝、今日やる事をブログに過去形で書く。「~した」「~して楽しかった」。こう書くと、実際そのとおりになる気がしています。急用で予定が狂っても気にしない事が重要。脳が人を騙す事もあれば、人が脳を騙す事もできる。「できるんだ!」と信じる。「できる」という「認識」が重要。

 

脳は身体の「入出力変換装置」

 

慣れや訓練で、脳のパイプやIQも変わっていく。そこが脳の面白さ。遺伝子で性格や能力がある程度決まっているのは事実だとしても、脳はその「運命」から、経験や学習を通じて離れることもできる。

 

網膜という粗末な装置から入ってきたわずかな情報を手がかりに、本当は見えていないはずの膨大な隠れた情報を補いながら、リアルな「体験」をしている。ほとんど幻覚と言っていいくらい。

夢は、網膜からの入力情報がないとき、つまり寝ているときに、主に内側の情報から生まれた「幻覚」。無理やり何かを見ようとする意志力が脳にはある。

「見る」=わずかな視覚情報をもとに「~だ」と思い込む能力。

 

沢山の情報を吟味して、じっくり考えると、人はこじつけを始め、作話し、間違った結論に。考える時間が、全く無いのもいけないし、有りすぎもよくない。他のタスクをしながら、適度に気をそらした上で、「勘」に従って判断した方が成績は良い。

 

人間の生き方は遺伝子のみで決まるわけではなく、脳は遺伝子に書かれている決め事から自由になれるのか。「可塑性」は、遺伝子という呪縛からどれだけ離れた能力を発揮できるのかって意味なのです。

 

人間の脳は、接した現象をもとに物語を作りたがります。問題なのは、因果関係を想定する作業がしばしば現実離れすることです。中途半端な原因探し癖が、物語作りの原型になっていると思うのです。(宗教はルールや物語をガッチリ作る。それらがないと、人は生きづらさを感じてしまう。)