みんなちがって、みんなダメ

 

みんなちがって、みんなダメ

みんなちがって、みんなダメ

 

人が知るべきことは「自分が何をしたいのか(快感原則)」、そして「自分には何ができるのか(現実原則)」の二つしかありません。本当はもう一つ「自分は何をなすべきか(超自我/外部から来た内面化された権威/善悪)」。

 

西洋文化は親からの承認を求める本能的な欲求を、制度的に強化したのです(カトリックの告解制度)。そうなると、いつも不安で承認を確認しながらでないと生きられなくなる。

 

基本的には、イスラームでは存在するものはすべて承認されているという大前提があります。

世界が存在するということが、神の存在証明なんです。神がいなかったら世界が存在しない。世界がなぜあるのかというと、神の意志によってある。神が望んだからある。つまり神によって承認されている。

 

クルアーン』でも、その一部だけを取り出せばわからないことはいくらでもあります。理解できないこと、意見が合わないことのほうがむしろ多い。にもかかわらず、それが正しいという前提で、では、どうすればその言葉が正しくなるのかということを考えていくのが神学者の仕事なんです。

 

イスラームでは神はすべてを知ってるけれど、人間は知らないというのが大前提にあります。

 

洗脳と聞くとカルト宗教のようなものを連想して、怖いものだ、良くないものだと思われがちですが、重要なのは「洗脳はあるものだ」という事実を見ることです。

 

逆に、あんまりバカだと責任無能力者になるので、無条件に天国へ行けます。

 

では、自分がバカだと気づくにはどうしたらいいのか。それには「あなたならできる」とか「あなたはミミズではなくヘビだ」といった囁ささやきに耳をかたむけないで、バカな自分をバカなままに見つめることです。

 

本当はないのに、あるかのように扱われているものを、われわれはたくさん叩き込まれています。それらが現実以上に現実感をもってしまっているから苦しいんです。

 

ちなみに仏教ではその出発点が終点になっている。すべてが幻想だと知ることで終わっている。しかし、イスラームではそこを出発点として、何をするかがだいじなんです。

 

 

価値があるかどうかは国民と見なされるかどうか。平等という価値観と、領域国民国家は、そもそも両立しない。

「人間は平等だ」というのは「人間は平等であるべきだ」という話。「文明化された人間(西洋)だけが平等に値する」という前提。

 

資本主義にもとづいた洗脳のシステムにすっかり取り込まれてしまって、十分生きられるのに、「もう生きられない」とか、「自分には生きる資格などない」とか思い込んでしまう。生きる資格など初めからないんですが、生きたければ生きればいいんです。

「働かなくてはいけない」という考え方そのものは資本主義による洗脳です。

 

仏教ではいっさいは空であり、あらゆる思考は思い込みなので、それにとらわれるなと説きます。でも、現実にはそういう言い方を悪用してバカな人間を捕まえて、金を儲けている坊主もいます。

 

イスラームは万人のための教えです。バカはバカのままでいいんです。意味はわからなくても、礼拝のような最低限のイスラーム法を守っていれば、バカであっても、そんなにおかしなことや不幸なことにはならない。

 

資本主義は幸せのイメージというのを、いろいろ提供してくれます。それが洗脳であることに気づいて、幸せでなくてもかまわないと気づいたときに、結果的に幸せになれるんです。

 

われわれは少なくとも共同体の規範に則って生きていると理解するのが大事。でも、リベラリズムはあらゆる共同体の規範からも自由になれると考えているという点で、認識そのものがまちがっている。だからバカなんです。

 

「こうすれば億万長者になれる」とか「ブロガーになって成功する」とか、そういうのに煽られて道を外していくと不幸になる。そういうことを述べる本は、それを書いている本人が成功するためのものであって、買う人は食い物にされているだけです。

 

資本主義を機能させるのに役立つバカをつくり上げるのが近代教育の本質です。資本主義は、そこに価値を見出すのです。

 

あからさまな噓であっても、噓が成り立ってるのはそれなりの理由がある。もしフロギストンやエーテル(今では否定された科学理論)に利権がからんでくると、それらを一生懸命守る人間が出てくる。

 

「人間は自由だ」とか「自由でなくてはならない」とかいう考え自体が洗脳。その考えにこだわり過ぎて、結果的に「自由でなければならない」という考えの奴隷になっている。

人間には価値がないことを淡々と見つめること。すべての伝統宗教は、そのことを教えています。人間は死ぬ。死んだらゴミになる。その事実を淡々と見つめる。

生きていることに意味なんかないと知ることが、真の意味で生きることの理解に通じる。

 

大量にいるはずのバカな人たちに「自分は賢い」と思わせて、いろんなことをやらせて、かえって不幸にしているのが今の社会です。

 

問題は、逃げることではなくて、たとえば「自分には、もっと適職があるはずだ」とか「自分にはホントの生き方があるはずだ」という幻想に入り込むことです。これは資本主義のやり方です。そうやってまわしていかないとつぶれてしまうシステムなのでね。

 

「こうならなきゃいけない」にしがみついているから、いまが「ダメ」に見える。でも、その「こうならなきゃいけない」は外から与えられたものです。与えられたものに振り回されている。

 

理性が曇っていると、外からおかしな基準を取り入れて、自分は承認されていないと思い込んでしまう。

 

現代の生きづらさはコペルニクス的な生き方(少数派)ができないことではなくて、コペルニクス的な生き方をするのが正しいという強迫観念にさいなまれていることのほうにあるのではないか、というのが中田氏の見方だ。