日本習合論

日本習合論

日本習合論

◾現実に居付くと「念」が生じる。目の前にある、具体的な、リアリティに囚われ、そのせいで心身の能力が低下する。「無念」になるには、そこにないものを操作する(相手の腕をつかむ...ではなく例えば「想像上の剣」を操作する運動を「念」じると動きの質も動線も使われる筋骨も違ったものとなる)。そこにないものなので、相手に予期や妨害はできない。理屈上、「無念」は武道的に有効。
◾認知的に「非現実」とみなされたものが、遂行的には「現実的」に機能することがある。「現実」と「非現実」の境界線はどこに設定したらよいのか。
◾平時の肩書きや地位や学歴のようなものは、非常時の人のふるまいを予測するときの基準にはならない。その人が一言を重んじる人かどうか、約束を守る人かどうか、人としての筋目を通す人かどうか。
◾「人を見る目」外形的な情報に惑わされず、正味の人間としてのありようを評価できる能力。今の日本では、中身がどうであれ、外形的な年収·地位·社会的な力等「エビデンス」に基づいて人間は査定されるべきというイデオロギーが支配的。
◾本当に僅かな目尻のしわの数を人間は見分けることができるという話を森田真生君から聞いたことがあります。目の前の人の表情から、好意的か、ただの作り笑いかを判定することは、生存戦略上きわめて重要。
◾「現代日本社会は共感過剰」、理解と共感の上に人間関係を基礎づけることのリスク。今の世情は全く逆。異常に共感を求め、意見の一致を喜ぶ。絆·ふれあい·ワンチーム、自他の癒合をスローガンに掲げる。僕はそういうのが「気持ち悪い」。人と違っていいじゃないか。
◾「他者との関係は理解と共感の上に基礎づけるべきではない(エマニュエル·レヴィナス)」理解や共感に過剰な価値を賦与すべきではない。この世の殆どの人間について、僕たちは理解も共感もできない。にもかかわらず、人間関係は理解と共感の上に~というイデオロギーだけは蔓延。そうできない自分は『変』でコミュ障という低い自己評価を持つ人が増えてきている。
◾家庭が地獄になるのは、親が子どものことを理解していると思い込んで、事細かにコントロールしようとする時と、子どもが親に対して過剰な理解を要求する時。いずれも家庭はメンバー同士の相互理解と共感の上に~という信憑がもたらすトラブル。支援を要する時には支援するが、あまり「心の奥底」には踏み込まない、というような節度が保たれた、温度の低い家族だったら、わりと穏やかに暮らせる。
◾二つの間に「結びつき」があると直感するメカニズム=「生物学的メカニズム」。頭で考えずとも、知性が創造的に働いていると、そういうことができる。ある論件をずっと考えていて、展望が開けず困っているとき、ふと目についた本をぱらりとめくると、まさに読みたかったことが書いてあった、というようなことはよく起こる。
神仏分離·廃仏毀釈とは、天皇という一神教的霊的権威による多神教的な偶像崇拝の霊的浄化というドラマとして遂行された。
◾農業が社会的共通資本であり本質的に定常経済を目指すものである以上、これを経済成長、右肩上がりスキームである資本主義市場経済に組み込むことは原理的にできない。組み込むと必ずどこかで「軋み」が生じる(農業は生身の人間の消化器ベースだが、金が欲しいという人には上限がない。「需要に上限のある生産活動」を「需要に上限のないシステム」では制御できない)。
明治維新以来、農業は「自然と文明の中間」という立ち位置から無理やり文明·市場サイドに追い立てられ続けてきた。
農は本質的に同一状態を「反復」するものであって、「成長」するものではない。持続するために存在する。
定量の安定的供給があるかぎり、農作物はあたかも商品であるかのように仮象するが、供給量があるラインを割ると、他の商品とは本質的に別物となり、奪い合いが始まる。どんなことがあっても安定的に供給されるような仕組みの中に置かれ、公共的な営みとしてとらえられるべき。
農業の歴史は二万三千年、株式会社は二百五十年、農業を市場原理に従わせることはできない。
その二つになんとか折り合いをつけさせられるのは可塑性のある生身の身体だけであり、「あちらが立てばこちらが立たず」という矛盾に耐えて二つの異なる原理を仲立ちすることができる。
◾相互扶助的な共同体も資本主義市場経済とは相性が悪い。
家族4人が解散すると、住居や家電が4つ要るようになり、需要が激増。家族解体が資本主義の要請だと誰も気づかなかった。一人一人が自立して「自分らしく」生きることは「よいこと」、というのは「囲い込み」であり、資本主義市場経済からの要請であった。
◾農業生産が始まってはじめて「非生産者=専門家=有閑階級」が発生します。そして、そのときに人類は、自分は食料生産に携わらずに、人に労働させるだけの非生産者がいるほうが、生産量は増えるという逆説的な真理を発見したのでした。
非生産者が従事した職業は、戦争·宗教·政治·スポーツ·学問などであり、食料ではなく、ある種の有価物を創造しており、彼らをより多く擁している集団のほうが生き延びる力は強い。これは人類史的真理なのです。
組織管理や技術開発や共同幻想の提供により、彼らは集団を統合させる機能を果たしている。
独裁制は極端に言えば、賢者は独裁者ひとり、他は上の指示に従うだけの幼児で構わない。民主制は、指示なしで、自律的にシステムのための最適解を見出だし実行できる人を多く要求。
民主制は市民の成熟から大きな利益を得るシステムであり、非民主制はそうではない。
民主制が「長期的に見ると、他の政体よりまし」なのは、そういう理由によるのだと僕は思います。
◾自分のできあいのスキームですぱすぱ現実を切り裁いても、自分自身はこれ以上賢くならない。それでは面白くないというふうに考える人が「遂行的に賢い人」です。
「話は複雑にするほうが知性の開発に資するところが多い」