武道的思考

武道的思考 (筑摩選書)

武道的思考 (筑摩選書)

◾武道が想定しているのは危機的状況。自分の生きる知恵と力のすべてを投じないと生き延びることができない状況。
「競技」が想定するのはアリーナの中での「試合」。武道が想定するのはそのアリーナにいきなりゴジラがやってきて、観客席が踏み崩されるような状況をどう生き延びるかという問題。
人が多い所へは行かない、断片的情報から現状を適切に推理する力、信頼できる人を見当てる力、等生きる知恵と力は単一ではなく、他者と比較考量するものではない。
「生きる知恵と力」とは「生き延びるチャンスを増大させるもの」をいかに多くすることができるか。他の人にとって役に立たないことが自分には役に立ち、意味があると思えるということ。他の誰によっても感知されないような意味を世界から引き出すこと。疎遠な世界を親しみに満ちた世界に書き換えるということ。人には見えないものが見える。
◾澤庵禅師「天地未分、陰陽不到の処に徹し」
非分節的世界に分節線を引き、そこに意味を贈与、世界に深く踏み込んでゆく仕事は、他の誰によっても代替され得ない。そのようにして、自分で分節した世界だけが私達の本当の居場所。
◾兵士は「消耗品」のため、戦前の強兵の錬成のための武道教育では、中世以来洗練されてきた伝統的な身体文化のうちもっとも枢要な部分が排除されていた。それは、人間の蔵する生きる知恵と力を開花させ、潜在意識レベルでのコミュニケーション能力を開発する技法、呼吸法、瞑想法、など心身錬磨の技法である。
◾スポーツでは「勝ち負け」や「数値」や「記録」といったデジタルなデータが一次的に重要である。「なまもの」としてのアナログな身体にはあまり用がない。だから「スポーツをやって身体を壊す」ということが起きる。「健康法を実践したら病気になった」とか「長寿法をやったら早死にした」ということは笑い話ではなくて身近に無数の実例があるが、それは身体「そのもの」ではなく、身体の「出入力」を優先的に配慮することの必然である。
◾総じて、どのように生きたいのか。どのように死にたいのか。生きることにかかわるさまざまな「訴え」を高い精度で感知するための技法が武道である。
◾武道は「先駆的な知(生き延びる力)」の開発のための技法体系である。私たちはそれを「気の感応」とか「気の錬磨」というふうに呼んでいるのである。
◾道具を介して「外界とのなめらかなインターフェースを立ち上げる」という技術はきわめて汎用性が高い。剣や杖(木の道具を自分の身体の一部分のように感じとることの難しさを実感するためにひたすら振る稽古をする)、体術においての相手の身体、家事においての雑巾や鉈でも。
家事労働を「できるだけしないですませたい不払い労働」ととらえる風潮の中で、家事労働もまた万有と共生するための基礎的な身体訓練の場であるという知見は顧みられなくなった。
それでも関川さんが書いているように、今も幸田文の本が途絶えることなく読み継がれているのは、その家事労働についての知見が失われるべきではないという「常識」が私たちの間にまだかろうじて生き延びているからだろう。
◾他人の技を批判してはいけない、と多田先生に教えていただいたことがある。「他人の技を批判しても、自分の技がうまくなるわけではないからだ」
◾「世界が私のような人間ばかりだったらいいな」というのが人間が自分自身に与えることのできる最大の祝福である。
◾資本主義市場経済と消費文化の中で解体した中間共同体の再構築は私たちの喫緊の市民的課題。道場がその語の厳密な意味における共同体であるためには、そこでは「多様性と秩序」が同時に達成されなければならない。
多様性と秩序は矛盾するわけではない。
多様でなければ、システムは生成的なものにならないが、秩序が保たれなければ多様なもののうち「弱い個体」は適切に保護されない。
◾「道場は楽屋であり、道場の外が舞台である」
◾武術の稽古を通じて開発される能力のうちでもっとも有用なものは間違いなく「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する」能力。
◾強く念じたことは実現する。これはほんとうである。「強く念じる」=「細部にわたって具体的に想像する」。
想像したことが実現するのではない。想像していたからこそ、実現したことがわかるのである。真理というのはあらかじめ存在するのではなく、構築するものなのである。
人間がその心身のパフォーマンスを最大化するのは、「私はいま宿命が導いた、いるべき場所、いるべき時に、いるべき人とともにいる」という確信に領されたときなのである。
◾対立があるときの方がないときよりもシステムは活性化する。「弁証法」と呼ばれるのはそのプロセスのことである。活性化ということに焦点を当てて考えると、ある能力や資質を選択的に強化しようとするときには、それを否定するようなファクターと対立させると効率的である。
◾「序·破·急」の動き。一教の切り落としを三工程に分けて、円転·直線·円転と運動の質を切り替える。「序」は「順序」、「急」は「速度」で度量衡が違う。古人が「徐·破·急」を退けて、「序·破·急」の語を用いたのは、「破」によって度量衡そのものが切り替えられる消息を伝えたかったからではないか。
◾「同じルーティンの繰り返し」をしていると、わずかな兆候の変化から、異常事態に気づくことができる。命を守る上でも知的イノベーションを果たすためにもとても大切。
哲学者の哲学者性とは、自己の脳内における無数の孝想の消滅と生成を精密にモニターする能力に帰す。
ルーティンの最たるものは「儀礼」である。
つねづね申し上げているように、だから家庭は儀礼を基礎に構築されるべきなのである。愛情と共感はおまけ。
◾「武士は用事のないところにはゆかない」
用もないのにフラフラ出歩いて、トラブルに巻き込まれたり、怪我を負ったり負わせたりすることは武士道に悖る。
「武道的」というのはぎりぎりまで削ぎ落とされた合理性。使えるものは何でも使う。無用なことはしない。生き延びるチャンスを高める選択肢はためらうことなくつかむ。心身のパフォーマンスを下げることはしない。