遺言。

◾以来私は、読んだ本に気に入らない箇所があれば、墨を塗りなさいという意見を持つようになった。
◾つまりネコは字の形を見ても、とりあえず意味不明に違いないから、まず黒色という感覚所与(感覚器に与えられた第一印象)で判断する。ヒトがそうしないのは、教育を受けてきたからである。
◾感覚所与を意味のあるものに限定し、いわば最小限にして、世界を意味で満たす。それがヒトの世界、文明世界、都市社会である。それを人々は自然がないと表現する。
中島敦『古譚』「文字禍」 単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有させるものは、何か?ここ迄思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。
文字の場合ですら、感覚所与と意味はときに分離するのである。
◾意識つまり頭の中では、重い球が先に落ちる。ではというので、目で見てみると、重い球が先に落ちるわけではない。すなわち感覚所与が意識に反抗する。この時に感覚所与を優先しなさいというのが、実験科学なのである。
◾感覚所与(現実·事実)と意識(理論)の対立
科学実験とは、自分の側から見れば、自分の感覚と意識の解離を、感覚優位で解消することなのである。
自然科学が追っているのは、意識が正しいか、感覚所与が正しいか、ではない。内部の意識と、感覚所与と、両者の存在を認めた時に生じる、両者間の最良の対応関係なのである。
理論を事実が訂正するのが科学実験。
常識には反するかもしれないけれど、じつは私は現実も頭の中にあると思っているのである。
◾「分けない主義者」は同一性つまり意識を重視し、「分ける主義者」は違いの存在、すなわち感覚所与を重視する。
◾結論的にいえば、科学とは、我々の内部での感覚所与と意識との解離を調整する行為としてとらえることができる。
◾動物は交換を理解しませんよ。
猫に小判」になってしまうのは、動物にはイコールがないからなのである。
◾感覚はいわば外の世界の違いを捉えるもので、それを無視すれば、「すべては交換可能だ」という結論になる。脳内ではすべてが交換可能、なぜならすべては電気信号だからである。
◾ヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出したのである。
◾すべての馬の特徴を含んだ、理想的な馬が存在する。それをプラトンは「馬のイデア」と呼んだ。具体的な馬とは、イデアの仮の姿である。
◾感覚は違うといい続け、意識は同じといい続ける。その矛盾こそが、いわば西洋哲学を成立させた。
◾ヒトの意識が「同じ」という機能を持ったからこそ、動物の時代からあったはずの感覚所与と衝突するだけのことである。
◾つまりサルの脳のこの部分は、誰かがアイスクリームを食べているのをみても、自分が食べても、「同じように」反応するわけである。
◾それならそれは普遍的に宇宙に存在していいのであって、あんたの頭の中だけにあるのではない。それが津田を代表とする数学者の考えである。
◾ヒトの意識の特徴=「同じだとするはたらき」であり、それで言葉·お金·民主主義社会の平等等が説明できる。
◾つまり目からの文字を通した情報処理も、耳からの音声を通した情報処理も、言葉としてはまったく「同じ」になる。それなら脳の中では視聴覚両方の情報処理過程が「同じになる」場所があるはずで、それは視覚の一次中枢からも離れており、聴覚の一次中枢からも離れているはずである。それが言語中枢であろう。
目と耳どちらからの情報も、脳の中では電気信号に変えられるため、両者がぶつかるところでは、どちらも「同じように」扱われるはずである。だから脳の中では目と耳がつながってしまう。まさに連合野である。目という文字と、メという音を、「同じ」ものとして扱うことが可能になる。
◾「同じ」を繰り返すことで、感覚所与の世界(無限に多様)から離脱し、一神教(すべてを含んだ唯一の存在)に至ることが可能となる。八百万の神々は底辺に位置する。
◾「同じだとする」能力=「抽象化」
◾宇宙的に観察すれば、意識は秩序を増やしてなんかいない(掃除➡️部屋の秩序が増す➡️その分の無秩序は外界に排出/文明は秩序➡️大規模な文明➡️自然には無秩序が増す➡️自然破壊)。
◾「感覚からわれわれが受け取るもののうち、言語化できない部分、ないし言語化しようがない部分をクオリアという」
◾数学が最も普遍的な意識的行為の追求、つまり「同じ」の追及求だとすれば、アートはその対極を占める。いわば違いの追及なのである。
◾時間を含む過程を、本質的に時間を含まない情報に、どう変換するか
◾時空とは、時間を内在する聴覚運動系と、時間を内在しない視覚系を折り合わせるために、意識の内部に発生した。
◾それなら言葉の前提である目と耳の共通処理から時空が発生するというしかない。