バカの壁

◾物事は言葉で説明してわかることばかりではない。
◾脳内の一次方程式 y=ax
何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応(出力)がyというモデル。aは「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか。
特殊なケースとしてa=ゼロがある。入力あっても出力なし、行動に影響しないということ。人によって現実が違うというのは、実はaだったらaがプラスかマイナスか、a=ゼロかの違い。
A=ゼロの逆は、a=無限大。原理主義。ある情報、信条がその人にとって絶対のものになる。
◾個性は脳ではなく身体に宿っている(脳は社会生活を普通に営むために、「個性」ではなく、「共通性」を追及する)
◾生き物➡️どんどん変化していくシステム。情報➡️その中で止まっているもの。
流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。真理は動かない、不変だ、と思っていた。実はそうではなく、不変なのは情報。人間は流転する、ということを意識しなければいけない。
現代社会=「情報化社会」、意識中心社会、脳化社会。
近代的個人=己を情報だと規定すること。本当は常に流転するのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。だからこそ人は「個性」を主張する。その思い込みがなくては「個性は存在する」と言えないはずです。
◾『平家物語』と『方丈記
昔の書物を読むと、人間が常に変わることと、個性ということが一致しない、という思想が繰り返し出てくる。
では中世以前はどうか。平安時代というのは、まさに都市の世界。人間が頭の中で作った碁盤の目のような都市。今の我々とよく似た時代。
◾人間は変わるが、言葉は変わらない。情報は不変だから、約束は絶対の存在のはずです。しかし近年、約束というものが軽くなってしまった。
人間は変わるのが当たり前。だから昔は「武士に二言はない」だった。
ソシュールによると「言葉が意味しているもの」(シニフィアン)と、「言葉によって意味されるもの」(シニフィエ)、という風にそれぞれが説明されています。
前者は頭の中のリンゴ(a、イデア)で、後者は本当に机の上にあるリンゴ(the)だと考えればよい。
◾グルグル回しが無意味かといえば、そんなことはない。人間の身体は、動かさないと退化するシステム。筋肉、胃袋、何であれ。脳も同じ。巨大になった脳を維持するためには、無駄に動かすことが必要。刺激の自給自足➡️「考える」。
◾身体を動かすことと学習とは密接な関係があります。脳の中では入力と出力がセットになっていて、入力した情報から出力することが次の出力の変化につながっています(歩けない赤ん坊が何度も転ぶうちに歩き方を憶える)。
◾この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第にその入出力を脳の中でのみ回すことも出来るようになる。脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。
◾大人になると、入力も出力も限定されてしまう。
健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしていることなのかもしれません。
◾同じことをずっとやっているようでも、その人の中での理解だとかプログラムの編成替えが行われる、というのは珍しいことではない。
同じことをやっているのが即駄目だ、という単純な話ではない。
◾つまり首から上の運動の代表は食物を摂る運動で、下は身体が移動する運動。目的まったく別。そう考えると、脳味噌の中で、首のところで切れているのはある意味で合理的です。手がその間に入っているというのも実に理屈にあっている。
◾文明の発達➡️首から下の運動を抑圧することでもある(足で歩く変わりに自動車)。足の移動機能を文明社会は抑えることで発展してきた、ということが出来る。
◾その機能主義と共同体的な悪平等とがぶつかってしまうのが日本の社会です。
◾家族でいえば、大家族とか核家族とか、そういう形態は、あくまでも何を幸福として目指すのかということの結果でしかない。同様に、あくまでも共同体は、構成員である人間の理想の方向の結果として存在していると思います。「理想の国家」が先にあるのではない。
◾「人生の意味」「意味は外部にある」
◾脳化社会である都市から、無意識=自然が除外されたのと同様に、その都市で暮らす人間の頭からも無意識がどんどん除外されていっている。しかし人間、三分の一は寝ている。だから、己の最低限三分の一は無意識なのです。
それもあなたの人生だ、ということなのです。
無意識を意識しろ、といっても無理な話。ただし、あくまでも自分には無意識の部分もあるのだから、という姿勢で意識に留保を付けることが大切なのです。
◾自分の中にも別の自分=無意識がいるし、それは往々にして意識とは逆の立場を取っている。
だから人間は悩むのが当たり前。それなのに悩みがあること、全てがハッキリしないことを良くないことと思い、無理やり悩みを無くそうとした挙句、絶対に確かなものが欲しくなるから科学なり宗教なりを絶対視しようとする。
◾ホームレスでも飢え死にしないような豊かな社会が実現した。ところが、いざそうなると今度は失業率が高くなったと言って怒っている。もうまったく訳がわからない。
◾長嶋さんに限らず、言語能力が通常と異なる人が、その代わりに大変な才能を持っているというケースは実際に珍しいことではありません。
◾天才というのはひらたく言えば、A→Dというプロセスを省略してしまったり、あるいは一部の能力に欠けている人だ、ということができます。
◾しかし、ピカソの場合は、普通の人間にはいじれない空間配置の能力を自在に脳の中で変えて、絵として表現することが出来たのです。
◾学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。
◾情報ではなく、自然を学ばなければいけないということには、人間そのものが自然だという考えが前提にある。
◾あんたが一〇〇%正しいと思ったって、寝ている間の自分の意見は入っていないだろう。三分の一は違うかもしれないだろう。
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。
◾今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。
自分自身が違う人になっちゃうかもしれないと思ったら、絶対的な原理主義は主張できるはずがない。
◾一元論と二元論は、宗教でいえば、一神教多神教の違いになります。一神教は都市宗教で、多神教自然宗教でもある。
都市宗教は必ず一元論化していく。それはなぜかというと、都市の人間は実に弱く、頼るものを求める。百姓には、土地がついているからものすごく強い。
この強さは、人間にとっては食うことが前提で、それを握っているのは百姓だということに起因しています。
今は殆んどの人が都会の人間になっていますから、非常に弱くなった。その弱いところにつけ込んでくるのが宗教で、典型が一元論的な宗教です。
◾楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる。aを固定してしまう。それは一元論の方が楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから。
徳川家康「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」
私は遠き道を行くどころか、人生は崖登りだと思っています。
原理主義に身をゆだねるのは手を離すことに相当する(カルト宗教)。
◾崖を一歩登って見晴らしを少しでもよくする、というのが動機じゃなくなってきた。知ることによって世界の見方が変わる、ということがわからなくなってきた。
◾「人間であればそうだろう」ということは、普遍的な原理になるのではないか。
◾安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。