自分の頭と身体で考える

◾ところが、目というのは「一目みれば分かる」というように、一度に並立しているんです。そうすると、甲野さんの今の説明は、実は目型の説明なんです。身体全体の動きが、同時並行処理ですから。「あっちもこっちも全部一緒に動くんです」ということですね。
◾カメラマンに言わせると、素人がテレビカメラを扱うと、見にくくてしょうがないのは、背景が動くからだそうです。だからカメラというやつは、できるだけ、本当は固定しなければ駄目なんです。ところが、人間の目はよくできていて、周辺視野は固定して、中心視野だけを動かしているんです。
◾人間は速さを出そうとする時は体のうねりを使う、つまりムチの原理を使う。普通の人でも音速を超える(音は音速の壁を破る時の衝撃波)。しかし、時間と距離が掛かる。
それで私の場合は身体をバラバラにして、その割った身体を、同時に並行処理的に使うわけですが、そういう説明をはじめるとほとんどの人は分からなくなってしまうんです。
◾「固定的な支点をなくしていく」
同時並行処理は速い。速くするために支点を外す➡️支点が動く、支点が複数あるから速い(普通は一個)。
◾しかし支点を消しているうちは、向こうは、どっちから来るかという情報が来ないために、対策はたてられないわけです。それで怖いし不安定になる。
つまり事前情報がなかったら、人間って対策のたてようがないということですよね。
野口三千三さんも最初に、まず力を抜くということを言います。体操というのは、力を入れることだと誰もが思っているけれど、そうじゃなくて力を抜くところから始まるんだ、と彼は言ってます。
◾今の学歴というのは、要するに江戸期の身分制度が解体した後の代理身分制度みたいなものなんですね。
丹田
ところが、腹というのは骨がないですから、腹の部分に支点を置くようにしても、普通の意味での支点とは、全然違うんです。感覚的に丹田を支点にしても居付きがなくなるというか、しっかりしていながら自由自在で具体的には技がますます利くようになるのです。
べつに下腹から何か得体のしれない力強いが出るわけではなくて、支点をそこに置くと、全身がうまく協調的に動いてくれるんじゃないか、ということなんです。
単に何か信仰的に、下腹丹田に力を入れろというんじゃなくて、そこに力の支点が集まるような身体操作をうまくやっていくと、身体中、全身がそれぞれ無理のない範囲でエネルギーを出し、それが強大な力になるのではないでしょうか。
加齢によって体力が衰えても、使い方がうまくなっていれば、その動きの回路というか、それがうまく整理されていて、長きにわたって、無駄のない効率のいい動きができるだろうと思うんですね。
◾何でああいう方法論が発達したかというと、キリスト教世界にしても、ユダヤ教世界にしても、イスラム世界でも、社会的な押しつけというのはさっきのお話の保険制度どころじゃなく徹底的にすごいから、それに対抗し実証してみせるために科学は発達してきたのです。
つまり、そういう社会的な押しつけの解毒剤として発達したわけです。
◾スランプなんて、自分のある状態を良いとして、それにこだわるから起こるので、たえず先を研究していれば起こらないんですよ。
◾やはり呼吸法っていうのは洗脳システムに直接的に関わってきますからね。呼吸の仕方を教えると、オウムだってそうですけれど、特定の考えが無批判に受け入れられてしまったりします。ですから呼吸のことは私は言わない。呼吸法を説きながら私の意見を言うと「その人の主体的判断を奪ってしまう」という感じがすごくするんです。人の美意識を鈍らせてしまうのが一番こわい。その人がその人であり続けるのは結局は美意識しかないと思いますから。
◾イングリッシュガーデンって、当時のイギリス人が山形県の農村を理想にして作ったものだったということが分かったんです。
◾土台がしっかりできているから、かえってそれにこだわって動きが遅いということもある(武術的な動きから見れば二重手間)。
終戦直後に、教科書の都合の悪いところに墨を塗ったでしょ。これはきれいに消されたんですね。これを経験したのは僕らの世代だけなんですが、それは特殊なことだった。だから教科書の検定が、相変わらず続いている。
◾公教育では哲学も宗教も教えない。今まで宗教家には麻原みたいな人もいるということを、誰も教わったことないんです。
◾外科医の称号は英語では未だに正式には「ミスター」。「ドクター」というのは内科医。直接に身体をいじる職業は、下等な職業とされていた。産婆、解剖医、外科医、床屋、ペディキュア師、これは全部同じ立場の職業です。
◾僕が反体制を信用しないのは、反体制は引っ操り返すと体制になるからです。
◾縄文の人が弥生の土地に住まわせてくれとなった時にできること➡️不浄の仕事、狩猟採集民、動物の皮剥ぎから、革細工。なぜ日本人は四つ足を食わなかったのか。「あれは縄文人の食うものだから、俺たちはそれは食べない」
◾法は解釈。
◾外国➡️言語が世界を規定。「はじめに言葉ありき」、「言葉にならないことは伝える意味がない」、言葉にならない=他人に言えないから、ないと同じ。
日本➡️重要なことは文字や言葉に言い表せない。言葉が現実に規定される。
◾日本語の持つその曖昧さを持った広がりが、独特の許容さを持ち、逆にそういう日本の共同体意識で曖昧なものが曖昧なまま奇妙に生き延びておかしくなってくる元にもなっている。
◾まず前に体を切って体を捻らず、全体がそのまま向きを変えて後を切る。普通の人がやるとまず腰を捻っておいて後から刀を持った腕や肩が追っかけるんですが、そうじゃなくて全部がいっしょに動く。
ところが今の体の使い方というのは、みんなやっぱり捻ってしまう。そのため全然体重差をカバーする方法がなかったのではないでしょうか。
体を捻らない、つまり歩く時に現代のように左手と右足がいっしょに前に出るような動きではない身体操作法。
村上春樹「自分は走り始めてから文章のスタイルも何も全部変わったから、心身というのは相互に非常に影響しあうものだ。身体を変えると物の書き方も変わってくる」
身体が変わればまず間違いなく考え方も変わるだろうけれど、変わってしまうと何か以前と違って全然面白くなくなったり、あるいは公平な見方の人が、得意なものができたりすると片寄って全体が見えなくなるということもありますね。
◾その質的に違った動きをどうやって引き出すかっていうと、たとえば、ふだんなら見逃してしまうような身体の自動制御運動の長所と短所を自覚するような稽古法を組み立てる設計のセンスだと思うのです。