カミとヒトの解剖学

◾私は反抗したから、縁ができたのだと思う。あるいは、縁があったから、反抗したのかもしれない。
◾『ソクラテスの弁明』に「自分が何かをしようとすると、ダイモニオンがそれを阻止する」という台辞があったと思う。なにか正体のはっきりしないもの、それをソクラテスはダイモニオンと呼ぶのだが、それが、やっては「不可(いけ)ない」ことを、そのときだけ何となく指示をする。
◾だから、移ろいやすいものは、じつは動物としてのヒトではない。あらゆる意味での教育、つまり脳の中味である。
ポパーは世界は三つあるという。世界1=唯物論的な物質の世界。世界2=個人だけに属する心理の世界。世界3=抽象普遍の世界。2と3の境界はやや曖昧。
◾座禅の場合も、上位の中枢をうまく抑制することが問題ではないか、と考えられる。そもそも「不立文字」などというのは、言語中枢の活動をほとんど無視しろというのである。それなら、大脳皮質の連合野の重要な機能を抑えてしまっている。むろんそれでも活動が残る脳の部分はたくさんある。禅とは、日頃日の当たりにくい、脳のそうした部分を表に出してやろうという親心であろうか。
◾自己の死と他人の死を巡って、ヒトのシンボル能力発現の最初の契機をそのまま素直に発展させたもの、それこそが宗教ではないのか。
◾ただし、宗教自身の進化の過程で、それは生死観の統制という形に変化した。
◾こうして、「夢の話」とは、おそらく覚醒後に、睡眠中に起こった脳内のできごとを、「言語表現となるように」語るものだ、ということになる。
夢も、臨死体験も、覚醒後に「語られる」。
◾覚醒状態=視覚と聴覚の一致➡️言語、臨死状態=聴覚のみで不一致➡️「宙に浮いた自分」という解釈が生じる。
◾臨死状態では、自分の位置について、聴覚の入力しか実際には利用していない。その入力を利用し、不完全な意識が、「高いところから自分を見ている」という解釈を作り出す。そこで視覚は、「はたらいているつもり」なのである。じつはそうではないから、結論はきわめて奇妙なことになる。
◾夢にせよ、臨死体験にせよ、視覚が中心を占めるかとは、従来あまり注目されていない。この点については、以下のように考えたらどうであろうか。低下した意識水準においても、脳(意識)は、ふだんのようにものを解釈しようとする。この場合、目をつぶっているという事実は、いまの意識水準では、考慮されていない。したがってそこに、日常とはきわめて異なった、視覚「経験」が発生する。その入力は、主として聴覚を中心とするものである、と。
◾いかに意識が低下していても、自分が死にそうだというのは、本人の意識の最大関心事であろう。それならそこで、「自分が直接に知っている」死者の連想が生じて、まったく当然であろう。
◾こうしてみると、石で封じるほかに、妖怪退治のコツは、一般にそれを「実体化」することにあるのではないだろうか。実体化すれば、妖怪の弱点がわかる。
◾科学もまた、大霊界と同じところ、つまり頭の中に存在する。しばしば大霊界と折り合いが悪いのはそのせいである。宗教どうしが仲が悪いのと同じこと。大霊界を科学的に証明するなどというのは、仏教をキリスト教で証明しようとするようなものである。
◾錯覚と呼ぼうが幽霊と呼ぼうが、しょせん、その実体は同じものである。脳の中のある活動に過ぎない。連想、つまり脳の中での他の観念との関連が異なってくるだけの話ではないか。どちらの連想をとるか、それを思想の自由というのである。
◾実在感のあるもの、それを現実と人は言う。現実もまた、その意味では、脳が作り出す。神秘主義とは、その現実が、一般に認められる事物でも、理性で証明されるものでもないものを言うのであろう。
◾もし、実在感という「機能」が存在し、それの対象が脳内過程でありうるとすれば(事実そうであることは疑えないが)、神秘主義の発生はいささかも「神秘」ではない。われわれが想像と呼ぶものもまた、脳内過程の産物だからである。
◾実在感は、学問では、さまざまなイタズラをする。それは、神秘主義と同じことである。頭の中で考えたこと、つまり脳内過程、それが実在感と結合する以上、われわれはそれから逃れるすべを持たない。
神秘主義の存在は、人間とはそういうものであること、したがって脳とはそういうものであること、それをわれわれに教えてくれるのである。
◾数学や哲学では、最後に極限が出てくるのだが、宗教では「始めに極限があり」、話が極限から現実へと逆流するのである。
◾時におけるこの無限の発生を嫌ってか、聖書はこの世に始めと終わりを置いたが、それがあまりに具体的すぎたため、結局は自然科学との間で物議を醸すことになったのは、ご存じのとおりである。もし時に始めと終わりを置かなければ、線的な時の両端は開くことになる。仏教では、これを輪にして丸めてしまう。それが「輪廻」であろう。
◾時空とは、その意味では、よく似たものであり、両者は事実アインシュタインによって「相対化」されてしまう。時空とは、われわれが脳の中に構成する、一種の「地」の観念なのである。浄土という言葉に、「土」すなわち「地」が含まれているのは、果たして偶然であろうか。
◾要するに、ハイテク化とは、大脳の新皮質だけになることである。
その傾向が機能として表れたのが、われわれの文明である。文明はつねに都市化として表れる。
◾時空のうち、空間をとるか、時間をとるか、そこに西行と長明の違いが現われる。(空間型=移動に関して視覚との結合が強い視覚型/時間型=移動と聴覚ー運動系との結合が強い聴覚型。情動との結合強。この対立がどのような形で処理されるか。それがいわゆる文化、いわゆる思想の、重要な前提となっている)
◾差別に関して言うなら、不気味は「負」、対して畏怖は「正」の感情。ここからまた、被差別者の二つの分類、すなわち聖と賤とが生じる。
「聖」は社会的には「差別」と認められていないが、心理的には差別と言ってよい。すでに定義したように、「聖」もまた、「対象の属性ではないものを、対象の属性とする」ことだからである。
一般に、「聖」が差別とされないのは、社会的に不利益を被っていない、ないし利益を得ている、という判断があるためだろう。
◾脳化による究極的な差別は、未来において、遺伝子操作による「超人=神」対通常人という形で最終的に表面化するかもしれない。
寺田透『道の思想』(創文社)にいう。「文武いずれの世界でも、[道]というような考えの成立には、こういう絶対的存在の専横と、他方その下で自己の存立を守るために是が非でも一藝に熟達する必要のあったものたちの労苦」があった、と。
◾社会的な思想(脳化思想/共同幻想/国家·文化·伝統·言語)というのは、一人ではじつはすることがない、という欠点を持っている。だからテレビを見るのであろう。
◾情報社会とは、脳の共有を意味する。そこでは「行」を中心とする、個人の内部での心身相関の開発は、前提の外にある。情報社会とは、心ー心相関、自他の脳の共有に他ならないからである。いまの若いひとは、他人のことばかり気にする。その心身相関の落ちこぼれが、マンガの主題、新興宗教臨死体験の流行、ニューサイエンスを生む。これらがいずれも、いわばなんらかの「行」を含むことが、注目されるのである。
そこまで世の中について行くか、行かないか、それこそ個人の勝手であろう。
◾時間と位置の問題自体は、アインシュタイン特殊相対性理論でも、すでに生じたのである。しかし、相対性理論の場合には、光速を「絶対速度」とすることによって、時空の方を相対化し、ひとまず片をつけてしまった。
◾なにも光子を例にとらず、こうして目に見える現象をとっても、位置と運動は頭の中で矛盾を起こす。矛盾➡️われわれの頭の癖➡️目と耳➡️目と耳に折り合いをつけさせたことが、人間では言語を生んだ。両者最大の反目は、時間をめぐって発生する。目=時間を瞬間に切り取り、そこから写真や絵が発生。耳=時間を「流す」。
◾視覚はより独立にものごとの思考を支配するが、その他の感覚(聴覚·運動)は、他の感覚とより結びつきやすいことが表明されている。
◾目と耳=「静的」と「動的」(ハイゼンベルク)=アポロ的(造形家の芸術)とディオニュソス的(音楽という非造形的芸術)(ニーチェ)
◾耳は脳の下位の中枢との関連がより強い。だから、ショーペンハウエルニーチェが、音楽が、すなわちディオニュソス的世界が、より世界の根源に近いと感じるとき、それは対象としての外部世界ではなく、かれらの頭の中の世界を意味しているのである。上位より下位の中枢の方が、われわれが「生きる」ことに関しては、はるかに「根源的に」影響するからである。
◾目の脳の下位の中枢と関連する光受容器=松果体(第三の目)。哺乳類では、なぜかそれが脳との直接の関連を絶ってしまう。耳では両者がおそらく相変わらず渾然一体となっている。
◾念のためにつけ加えておくと、本当は自分の頭の中にあることを、対象の性質であるとして、対象に押し付けるのは、西洋人の、御家芸である。かれらが言う「世界はこうだ」=「自分の頭の中はこうだ」。その「解毒剤」として、西欧には自然科学が発達した。