コモンの再生

◾江戸時代の「うちの殿様」が明治になって「天皇陛下」にシフトして、敗戦のあと「アメリカ」にシフトしただけで、日本の市民たちは、かつて国家に抵抗したことも、革命したこともないんですから。自分自身の私権私財を自分の意志で抑制し、供出し、公共を立ち上げたという歴史的記憶がない。
◾権力者がその権力を誇示する最も効果的な方法は「無意味な作業をさせること」です。合理的な根拠に基づいて、合理的な判断を下し、合理的なタスクを課す機関に対しては誰も畏怖の念も持たないし、おもねることもしません。でも、何の合理的根拠もなしに、理不尽な命令を強制し、服従しないと処罰する機関に対して、人々は恐怖を感じるし、つい顔色を窺ってしまう。
今の日本の権力者たちは他の点では多くの問題を抱えておりますけれど、「マウンティング」の技法には熟達しています。
◾トップが「俺が責任を取るので、現場は事故裁量で最適な対応をしてくれ。高度の判断を要する事案だけ上げてくれ」と権限委譲すれば、トラブルの発生は最小化します。これは組織論の基本です。
◾メディア·リテラシーというのは、「その真偽を知らない事案についても真偽の判定ができる能力」のことです。
嘘つきの検出は割りと簡単。扱いが難しいのは「フェイク·ニュースを本当だと信じて、大真面目に拡散する善意の人」の「脇の甘さ」です。これは検知するのがとても難しい。
これから必要になるメディア·リテラシーはとりあえずは「嘘つき」と「いい人なんだけど、脇の甘い人」にタグをつけて「眉に唾をつけてから話を聞く」という態度なんでしょうね。
◾「弱い親」は次世代にクールでタフで、きびしくおのれを律する無口な子どもを生み出し、彼らが過剰な自己抑制ゆえに引き受けることを拒否した「弱さ」や「欲望」から「邪悪なもの」が生まれて、世界に災厄をなす。そういう二世代にわたる「因果話」が村上作品の一つの骨格をなしている。
あまりに弱く、疲れ、傷つき、子どもたちのために「天蓋」を作ることができなかった父親、子どもたちをその羽の下に包み込んで守ることができなかった父親がもたらす災厄がむしろここでは問題になっている。
◾これまで「よいこと」と思われていた人間的資質から「邪悪なもの」が生まれ、これまで「悪いこと」と思われていたことが世の中を支えていた······そういうことってよくあることなんです。世界は二項対立的に分節されている。善と悪、昼と夜、戦争と平和、男と女······面倒だからと言って、そのどちらか一方に片付けるわけにはゆかない。二項が拮抗するその「あわい」にしか人間が住める場所はない。ささやかだけれど確実な幸せが期待できる場所、人間が生きるに値する場所、それを求めてゆくというのが村上春樹の変わらない作家的目標じゃないかと僕は思います。
◾僕は健康というのは「適度」ということだと思っています。個人によって「適度」は違う。江戸時代に加賀藩のお殿様だった前田斉泰という人が書いた『申楽免廃論(さるがくめんはいろん)』という「健康書」があります。これは最初から最後まで「適度に」とはどういうことかを論じた本です。
斉泰によれば、大食漢は大食することが健康法で、少食のものは少食するのが健康法である。正坐をする人は正坐をするのが健康によく、終日歩き回る人は歩くのが健康によい。何が健康によいのかは一人ひとり違う。だから、おのれの「適度」を知って、その「いい加減」のところに実を持していればよろしいというのが斉泰の教えでした。こういうのが大人の態度だと僕は思いますね。
◾不動産王の「壁作り」はなぜ支持されたのか?➡️アンチ·グローバリズムの流れ
この四半世紀、経済のグローバル化が急激に進行しました。それによって、従来の国民国家の枠組みが破壊された。ボーダーコントロールがなくなり、言語も通貨も度量衡も統一され、障壁がなくなってフラット化した世界市場を超高速で資本·商品·情報·ヒトが往来することになった。壊れたのは経済障壁だけじゃありません。それぞれの国民国家が自分たちの帰属する集団に対して抱いていた民族的アイデンティティも破壊された。
グローバル化はそれ以外には経済成長の手立てがなくなったためにやむなく選ばれた道なので、グローバル化を推進していた人たちだって、その果てに何が起きるかについて見通しがあったわけじゃない。とりあえずグローバル化しないと当期の売り上げが立たないという目先の損得で突っ走ってきただけです。でも、経済成長の条件がない環境の下で、無理強いに経済活動を加速してきたわけですから、いずれ限度を超える。現在の株取引は人間ではなく、アルゴリズムが1000分の1秒単位で行っています。金融経済については、もう変化のスピードが生物の受忍限度を超えています。自分たちが何をしているのか、プレイヤー自身がもうわからなくなってしまった。
◾周りの人たちを「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら「身銭を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体はどうやったら立ち上げることができるのか。この問いが今ほど切実になったことはありません。