唯脳論

◾ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。
◾「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」
◾フロイドはだから「無意識」を「発見」したのである。私はそれとは別な「無意識」を発見したと思っている。それはたとえば数学である。数学の論理は、それがある形で脳内にあるからこそ、見つかるのである。しかし、数学者は、そのこと自体を「意識してはいない」。
◾脳と心=構造と機能
心臓血管系(物)と循環(機能)とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。
◾心が脳からは出てこない=「機能は構造からは出てこない」
唯脳論では、「心の原因としての脳(時間·因果関係)」を扱うのではない。心の示す機能に「対応するもの」としての脳、あるいは脳という構造に対応するものとしての「心という機能(形態学·対応関係)」を扱う。
◾構造とは、脳なら脳を、より視覚系寄りに扱うやり方であり、機能とは、同じものを聴覚·運動系寄りに扱うやり方。
◾死体があるからこそ、ヒトは素朴に、身体と魂の分離を信じたのであろう。これを生物学の文脈で言えば、構造と機能の分離ということになる。死体では、肝、腎、脳といった構造は残存しているが、もはや機能はない。
◾私の意見では、構造と機能とは、われわれの「脳において」分離する。「対象において」その分離が存在するのではない。
◾死体において、構造と機能が分離したかに見えるのは、「あたかも分離したかのように」見えるだけのことである。
◾心身が二元に見えるのは、われわれの脳が、構造と機能を分離する性質を持つからである。
◾受容器(皮膚)と効果器(筋)の間に挟まった部分が膨らんだものが脳(中枢神経系)。『ドグラマグラ』「脳は身体の電話交換局にすぎない」「全身の細胞が思考する」。
◾教えなければならないということは、計算のような能力には、後天的な部分がかなり含まれている、ということである。言語の研究家は、言語の基礎には、ある構造があるという言い方をする。その構造は、私はじつは脳の中にあると思っている。構造主義における構造とは、しばしば脳の構造に他ならない。もっとも私は、その構造の全体を「前提」にしているわけではない。「教え込まれる」ことと、「基礎構造の成立」とは、同時に起こる過程かもしれないからである。ウィトゲンシュタインに言われるまでもない。
◾「脳が脳を知ることが意識だ」
◾「手の痛みは、それが手にあるから心に知られるのではない。それが脳にあるからだ(デカルト·幻肢について)」
デカルトを我流に翻訳するなら、「私が考えている」と言語で表現される状態(cogito)があって、それはつまり「私が存在する」と言語では表現される状態(sum)なのである。それがつまり脳の機能であり、だからこういうこと全体が言語で表現される。なぜなら言語こそ典型的な脳の「意識的機能」、つまり「脳が脳を知っている状態」だからなのだ、と。
◾視覚は時間を疎外あるいは客観化し、聴覚は時間を前提あるいは内在化する。
この関係は、すでに述べた構造と機能との関係にじつはよく似ている。構造では時間が量子化され、機能では流れる。構造と機能という、この二つの観念がそもそもヒトの頭の中に生じるのは、いわば脳の視覚的要素と聴覚的要素の分離ではないのか。構造と機能とは、どう考えても、同じ要素のことなる面だと思われるからである。同じ要素を、ヒトの脳の都合で二つに割っている。
ヒトの意識的思考が、この二項対立にいかに影響されているか➡️物理学基礎、光は粒子でもあり波動でもある。視覚系の脳の方から話を詰めれば粒子だが、聴覚系の脳の方から話を詰めれば波動になる。
構造主義と機能主義=視覚主義と聴覚主義(基礎医学では解剖学と生理学)
ひょっとすると、ヒトの脳は、視覚と聴覚という本来つなぎにくいものを、いわば「無理に」つないだのではないか。
◾視覚言語と聴覚言語はある程度並行して処理が可能。
◾視覚と聴覚とは、いわば脳の都合で結合したのであり、その結合の延長上にヒトの言語が成立しているはずである。
視覚と聴覚という、刺激の種類も時間に関する性質もこれほどみごとに異なる二つの感覚を、「言語」として統一する。結論を言えば、この連合がうまく成立するに至ったことが、言語成立とほとんど同義だと私は考えている。別の言い方をするなら、こうした異質の感覚をうまく連合する方式を考案しようとしたら、その好例として、なんのことはないヒトでは言語ができてしまった。
◾「形の真髄はリズムである」。
つまり、視覚対象の抽象化が行き着く果てまで、「形」を徹底的に考える。そこで、だしぬけに「リズムだ」と膝を叩く。悟りが開ける。
◾形とリズムの「連合」こそまさしく、意識的な「共通感覚」の基本。
◾R·シェルドレイク「形成的因果作用」「形態共振」
乱暴に言ってしまえば、形というものは、なぜか知らぬが時空を越えて突然ポンと転移するものだというのである。
➡️「自分の脳ではこうなっている」という話。「実証」の余地なし、純粋視覚型。
◾異質なものが脳の中ではじめて「連合」するとき、われわれは「わかった」と叫ぶ。
「形はリズム」。私の脳では、両者は直感的には連合していない。私はそれを、他の考察を用いて「やむをえず論理で」つなぐ。「自然に」連合するなら、その時点で私の脳はまた「変る」のであろう。
◾霊長類は、哺乳類としては例外的に視覚系を重視した。ヒトの論理的な苦労のかなりの部分が、ここに発するのであろう。
◾時間を基礎的に特徴づけるもの=変化、繰り返し。変化がなければ時間はない(絵や写真)。しかし、変化のみであれば、ふたたび時間はないであろう。そこでは時間は変化と同義になってしまう。そこに繰り返しが必要となる。繰り返しから、時の「単位」が発生する。
前頭葉には時計細胞と呼ばれるものが存在するらしい。一定の時間間隔で放電。「単位の繰り返し」=リズム。運動系ではリズムが大切。リズムは、身体の各筋の運動を、一つの作業目的に向かって協調させる。一種の時計、メトロノームや指揮棒として働くことに意味がある。運動の統制がとりやすいからである。
◾自己の認識の変化が、自然選択的であると「無意識に考えている」から、「生物が自然選択によって進化する」と考えるのではないか。それならまさしく、ダーウィニズム、ネオ·ダーウィニズム、進化論的認識論、神経ダーウィニズム、これらはすべて投影である。自己の脳が外界に投射されたものである。
ダーウィンと教会の衝突の深層はなにか。それは、古き「等身大以上」すなわち「ヒトを含む生物全体の歴史を説明する原理」との衝突だったのである。
ダーウィニズム=ポパーの定義に従えば、もはや科学ではなく、時間における形の変化に関して、一部のヒトが持つ典型的な考え方の一つ。
◾最後の普遍とは、ヒトの脳である。なにをその中に詰め込もうと、所詮われわれは「脳において思考するという形式」から逃れることはできない。
◾歴史意識=ある文化に置かれた脳の典型的な時間意識。
◾視覚という感覚は、運動と分かちがたく結びついている。前頭葉には、眼球運動にとくに関連する部分の存在すら知られている(前頭眼野)。
◾前頭連合野の一番前方「前頭前野」=運動の「意図」に関わる?
◾「盲目的な生きんがための意志」が「世界に」前提されているのか、かれの「脳の中に」前提されているのか。脳は世界像を創る臓器であることを忘れるべきではない。意志は大脳皮質の地図でいわば視覚と対極に位置するものである。一方はおそらく前頭前野、他方は後頭葉のもっとも後部。『意志と表象としての世界』とは、もし表象が視覚像を意味するとすれば、いちばん前からいちばん後ろまで、ずいぶんきちんと脳全体を包含しているわけである。
◾目的論が成立するのは世界ではない。生物の行動である。
◾知覚系の原理は「濾過」。運動系はその都度の運動全体の適否の判断を、どこかに預けざるを得ず、そこから目的意識が生じる。試行錯誤の原則に基礎づけられる。
自然選択説とは、基本的にはこの機構の投射であろう。
◾そもそも自然選択の思想自体が運動系から発したものであれば、この難点は説明しやすい。知覚系の進化を運動系の原理から説明するのは、ダーウィンの天才をもってしても、なかなか困難であろう、と。
◾脳が運動系についてなにかを「知った」とき、目的論が成立した。
◾力学は目的論ではなく、一対一対応の因果論。力学は数学ときわめて親近性が高く、力学の原理を、われわれが脳の中から「探してきた」としても、どこからどうしてそれを探してきたか、それを意識化することが難しいのである。
量子力学まで来れば、その「客観的真理」が成立しないことはもうわかっている。そこでは、ものごとは「量子的」つまり微分不能になり、最後には、不確定性原理として観測者が顔を出す。観測者とは何者か。それは脳である。同じ脳が、時空の相対性の問題についても、やはり顔を出したことは、大抵の人が知っている。
◾いまでは物理学的な宇宙論に脳、つまり観測者が顔を出すのは、当たり前になってしまった。
構造主義、視覚系、知覚系、実存主義、脳の後
◾機能主義、聴覚系、運動系、意志·目的、脳の前
◾ヒトは「外部の自然」を従え統御し、多くの賢者が、自然はやがてそれに復讐するであろうと語った。自然を甘く見るな、寺田寅彦「天災は忘れた頃にやってくる」。しかし、われわれに復讐すべき自然は、「外部の自然」ではなく、ヒトの身体性であり、ゆえに脳の身体性だったのである。自然は隠れも失われたわけでもなく、われわれヒトの背中に、始めから張りついていただけのことである。

カミとヒトの解剖学

◾私は反抗したから、縁ができたのだと思う。あるいは、縁があったから、反抗したのかもしれない。
◾『ソクラテスの弁明』に「自分が何かをしようとすると、ダイモニオンがそれを阻止する」という台辞があったと思う。なにか正体のはっきりしないもの、それをソクラテスはダイモニオンと呼ぶのだが、それが、やっては「不可(いけ)ない」ことを、そのときだけ何となく指示をする。
◾だから、移ろいやすいものは、じつは動物としてのヒトではない。あらゆる意味での教育、つまり脳の中味である。
ポパーは世界は三つあるという。世界1=唯物論的な物質の世界。世界2=個人だけに属する心理の世界。世界3=抽象普遍の世界。2と3の境界はやや曖昧。
◾座禅の場合も、上位の中枢をうまく抑制することが問題ではないか、と考えられる。そもそも「不立文字」などというのは、言語中枢の活動をほとんど無視しろというのである。それなら、大脳皮質の連合野の重要な機能を抑えてしまっている。むろんそれでも活動が残る脳の部分はたくさんある。禅とは、日頃日の当たりにくい、脳のそうした部分を表に出してやろうという親心であろうか。
◾自己の死と他人の死を巡って、ヒトのシンボル能力発現の最初の契機をそのまま素直に発展させたもの、それこそが宗教ではないのか。
◾ただし、宗教自身の進化の過程で、それは生死観の統制という形に変化した。
◾こうして、「夢の話」とは、おそらく覚醒後に、睡眠中に起こった脳内のできごとを、「言語表現となるように」語るものだ、ということになる。
夢も、臨死体験も、覚醒後に「語られる」。
◾覚醒状態=視覚と聴覚の一致➡️言語、臨死状態=聴覚のみで不一致➡️「宙に浮いた自分」という解釈が生じる。
◾臨死状態では、自分の位置について、聴覚の入力しか実際には利用していない。その入力を利用し、不完全な意識が、「高いところから自分を見ている」という解釈を作り出す。そこで視覚は、「はたらいているつもり」なのである。じつはそうではないから、結論はきわめて奇妙なことになる。
◾夢にせよ、臨死体験にせよ、視覚が中心を占めるかとは、従来あまり注目されていない。この点については、以下のように考えたらどうであろうか。低下した意識水準においても、脳(意識)は、ふだんのようにものを解釈しようとする。この場合、目をつぶっているという事実は、いまの意識水準では、考慮されていない。したがってそこに、日常とはきわめて異なった、視覚「経験」が発生する。その入力は、主として聴覚を中心とするものである、と。
◾いかに意識が低下していても、自分が死にそうだというのは、本人の意識の最大関心事であろう。それならそこで、「自分が直接に知っている」死者の連想が生じて、まったく当然であろう。
◾こうしてみると、石で封じるほかに、妖怪退治のコツは、一般にそれを「実体化」することにあるのではないだろうか。実体化すれば、妖怪の弱点がわかる。
◾科学もまた、大霊界と同じところ、つまり頭の中に存在する。しばしば大霊界と折り合いが悪いのはそのせいである。宗教どうしが仲が悪いのと同じこと。大霊界を科学的に証明するなどというのは、仏教をキリスト教で証明しようとするようなものである。
◾錯覚と呼ぼうが幽霊と呼ぼうが、しょせん、その実体は同じものである。脳の中のある活動に過ぎない。連想、つまり脳の中での他の観念との関連が異なってくるだけの話ではないか。どちらの連想をとるか、それを思想の自由というのである。
◾実在感のあるもの、それを現実と人は言う。現実もまた、その意味では、脳が作り出す。神秘主義とは、その現実が、一般に認められる事物でも、理性で証明されるものでもないものを言うのであろう。
◾もし、実在感という「機能」が存在し、それの対象が脳内過程でありうるとすれば(事実そうであることは疑えないが)、神秘主義の発生はいささかも「神秘」ではない。われわれが想像と呼ぶものもまた、脳内過程の産物だからである。
◾実在感は、学問では、さまざまなイタズラをする。それは、神秘主義と同じことである。頭の中で考えたこと、つまり脳内過程、それが実在感と結合する以上、われわれはそれから逃れるすべを持たない。
神秘主義の存在は、人間とはそういうものであること、したがって脳とはそういうものであること、それをわれわれに教えてくれるのである。
◾数学や哲学では、最後に極限が出てくるのだが、宗教では「始めに極限があり」、話が極限から現実へと逆流するのである。
◾時におけるこの無限の発生を嫌ってか、聖書はこの世に始めと終わりを置いたが、それがあまりに具体的すぎたため、結局は自然科学との間で物議を醸すことになったのは、ご存じのとおりである。もし時に始めと終わりを置かなければ、線的な時の両端は開くことになる。仏教では、これを輪にして丸めてしまう。それが「輪廻」であろう。
◾時空とは、その意味では、よく似たものであり、両者は事実アインシュタインによって「相対化」されてしまう。時空とは、われわれが脳の中に構成する、一種の「地」の観念なのである。浄土という言葉に、「土」すなわち「地」が含まれているのは、果たして偶然であろうか。
◾要するに、ハイテク化とは、大脳の新皮質だけになることである。
その傾向が機能として表れたのが、われわれの文明である。文明はつねに都市化として表れる。
◾時空のうち、空間をとるか、時間をとるか、そこに西行と長明の違いが現われる。(空間型=移動に関して視覚との結合が強い視覚型/時間型=移動と聴覚ー運動系との結合が強い聴覚型。情動との結合強。この対立がどのような形で処理されるか。それがいわゆる文化、いわゆる思想の、重要な前提となっている)
◾差別に関して言うなら、不気味は「負」、対して畏怖は「正」の感情。ここからまた、被差別者の二つの分類、すなわち聖と賤とが生じる。
「聖」は社会的には「差別」と認められていないが、心理的には差別と言ってよい。すでに定義したように、「聖」もまた、「対象の属性ではないものを、対象の属性とする」ことだからである。
一般に、「聖」が差別とされないのは、社会的に不利益を被っていない、ないし利益を得ている、という判断があるためだろう。
◾脳化による究極的な差別は、未来において、遺伝子操作による「超人=神」対通常人という形で最終的に表面化するかもしれない。
寺田透『道の思想』(創文社)にいう。「文武いずれの世界でも、[道]というような考えの成立には、こういう絶対的存在の専横と、他方その下で自己の存立を守るために是が非でも一藝に熟達する必要のあったものたちの労苦」があった、と。
◾社会的な思想(脳化思想/共同幻想/国家·文化·伝統·言語)というのは、一人ではじつはすることがない、という欠点を持っている。だからテレビを見るのであろう。
◾情報社会とは、脳の共有を意味する。そこでは「行」を中心とする、個人の内部での心身相関の開発は、前提の外にある。情報社会とは、心ー心相関、自他の脳の共有に他ならないからである。いまの若いひとは、他人のことばかり気にする。その心身相関の落ちこぼれが、マンガの主題、新興宗教臨死体験の流行、ニューサイエンスを生む。これらがいずれも、いわばなんらかの「行」を含むことが、注目されるのである。
そこまで世の中について行くか、行かないか、それこそ個人の勝手であろう。
◾時間と位置の問題自体は、アインシュタイン特殊相対性理論でも、すでに生じたのである。しかし、相対性理論の場合には、光速を「絶対速度」とすることによって、時空の方を相対化し、ひとまず片をつけてしまった。
◾なにも光子を例にとらず、こうして目に見える現象をとっても、位置と運動は頭の中で矛盾を起こす。矛盾➡️われわれの頭の癖➡️目と耳➡️目と耳に折り合いをつけさせたことが、人間では言語を生んだ。両者最大の反目は、時間をめぐって発生する。目=時間を瞬間に切り取り、そこから写真や絵が発生。耳=時間を「流す」。
◾視覚はより独立にものごとの思考を支配するが、その他の感覚(聴覚·運動)は、他の感覚とより結びつきやすいことが表明されている。
◾目と耳=「静的」と「動的」(ハイゼンベルク)=アポロ的(造形家の芸術)とディオニュソス的(音楽という非造形的芸術)(ニーチェ)
◾耳は脳の下位の中枢との関連がより強い。だから、ショーペンハウエルニーチェが、音楽が、すなわちディオニュソス的世界が、より世界の根源に近いと感じるとき、それは対象としての外部世界ではなく、かれらの頭の中の世界を意味しているのである。上位より下位の中枢の方が、われわれが「生きる」ことに関しては、はるかに「根源的に」影響するからである。
◾目の脳の下位の中枢と関連する光受容器=松果体(第三の目)。哺乳類では、なぜかそれが脳との直接の関連を絶ってしまう。耳では両者がおそらく相変わらず渾然一体となっている。
◾念のためにつけ加えておくと、本当は自分の頭の中にあることを、対象の性質であるとして、対象に押し付けるのは、西洋人の、御家芸である。かれらが言う「世界はこうだ」=「自分の頭の中はこうだ」。その「解毒剤」として、西欧には自然科学が発達した。

孟司と誠の健康生活委員会

◾それは江戸時代以来、日常生活の無意識の習慣があって、それが近現代になってから日本に入ってきたものとぶつかっちゃってるんですが、その矛盾を解決しないままに来ているんですね。
◾腸内フローラに一番良くないのは抗生物質です。
◾年を取ったら血圧が高くなるというのは、血液の通りが悪くなっているから身体が自然と調節しているということでしょう。
極端なことを言うと、心臓から下は血圧ゼロでも血は流れる。だから、脳に上げるために血圧がある、と思った方がいい。脳は全体重の2%くらだが、血流の15~20%を必要とする。
◾病気の新しい定義「生活の質がかなり落ちる重大な異常があって、しかも自然治癒に期待できないこと」としたらどうだろうか。
◾生きている限り、不安はあって当たり前なんです。不安と同居できるようになるのが成熟でしょ。
◾ちょっと医療の歴史をさかのぼってみると、外科医というのは、昔からとんでもないことばかりしていたんですね(笑)西洋では昔は床屋が外科的処置をしていて、内科医より一段低く見られていた。
◾意識は身体の従僕。身体なければ意識なし。ある時から意識が自分は主人だと勘違いし始めた。
◾僕の後輩の末期医療の放射線科医が、「先生の頃の余命はせいぜい一年と言っていたんじゃないですか」と聞くから、「そうだよ」と答えると、「今は六ヶ月です」と言う。なぜかと言えば、「一年と言って六ヶ月で死んだら医者が悪いみたいじゃないですか。だから短めに言うんです。最近は六ヶ月が三ヶ月になって、そのうち明日と言うようになりますよ」だって。
◾本当に病気でヨレヨレになった時には医者ぐらい頼りになるものはない。だけど、今の問題は、なにもする必要のないピンピンしている人をどうにかしようという、これが増えていること。検査をすれば8割から9割の人に何か異常値が見つかり、その程度の数値に過ぎないのに、テレビで「あなたは死ぬよ」と脅す様子を流す。何のためか、と言うと、健康な人を検査に向かわせるため。MRIやCTの台数にしても、日本は世界一多い。そういう機械を病院で導入したら、元を取らなければならないから検査をする。
◾「医は仁術」仁術というのは「慈悲の心をもって接すべし」、自己の利益をはかるな。でも、医者はどこかで稼がなければ生活できないから、薬代としてお金をもらうようになった。
◾戦後の保険制度が「医を算術」にした。
◾地方で増えた人口を、都会に出て来て減らしている。
◾ところが、しばらく経つと医者の数がどんどん増えてくるし、一方で、病気や病人の数はだいたい決まっている。そうすると、医者一人あたりの実入りが減るから、新しい病気を開拓しなければならない、という風潮になった。それで高血圧の数値の基準を作って、それをずーっと低いところに設定して、というようなことが始まった。それがいわゆる生活習慣病ですよ。
◾目で何か見ると、脳へ刺激が入るでしょ。それで手や足を動かす。その結果、脳の神経回路が変わる。そうやって学習するんだよ。五感から刺激を入れる、身体を動かす、また感覚が変わる、このぐるぐる回りがないと学習は成り立たない。
◾塩と血圧の関係は、ほぼわからない。ましてや寿命との関係はまったく不明です。すべては血圧に目を向けさせようという、日本高血圧学会の戦略なんです。
だから、測らなければいいんですよ。測るから気になるので。
◾何か見つかったら手術をしてその後遺症が酷いから、脳ドックは受けない方がいいというのが結論です。
◾医者が増えすぎたということが基本にある。増えすぎると、医者の中で差別化する必要が生じるから、専門医が増えるわけ。
◾血圧を測ること自体は害はないんです。でも、そこで高血圧と言われると、薬が始まってしまう。これが病気の始まりになってしまうわけです。
◾だから土建と同じで、そろそろ、大人の知恵を働かせて、したことにして済ます時代ですよ。
◾ヨーロッパ➡️「食べられなくなったら人間はおしまい」という昔ながらの世界共通の倫理観が生きている。スプーンなんかで無理やり食事の補助をするのは虐待だ、という考え方。
病で倒れて意識が無くても栄養補給をする、という日本のやり方は、医者たちが作り出した習慣。
◾医療の助けをいつ借りるか➡️怪我ややけど、骨折などの時。
◾いろいろなものを、食べたいだけ食べる。
◾一粒で長い間効く薬は危ない
長くその成分の血中濃度が保たれるということだから、何かの副作用があったら大変ですよ。
特に動物用の薬がひどくて、犬猫用のダニを防ぐ薬に一月効く、というのがあります。
ダメ、それは絶対ダメ。犬猫は何も訴えることができないからと言って、それはいけません。
フィラリア予防の薬なんか毒だからね。僕は犬猫の医療は虐待だと思っているから。
明治維新も戦争もそうです。日本は非常に能率がいい国なんだと思う。最適な状況を作ることに長けている。現状はもう最適になっていますから、それを動かすには他所からエネルギーが入らないと動かないんです。結局、外から力が入った分だけが動いた。
◾何か具体的なことに興味を持ったら、時間はいくらあっても足りない。どれくらい長生きしても大丈夫ですよ。
◾今を楽しめ。それが生きていく上での秘訣かな。嫌なことはしない、健康診断は受けない。

自分の頭と身体で考える

◾ところが、目というのは「一目みれば分かる」というように、一度に並立しているんです。そうすると、甲野さんの今の説明は、実は目型の説明なんです。身体全体の動きが、同時並行処理ですから。「あっちもこっちも全部一緒に動くんです」ということですね。
◾カメラマンに言わせると、素人がテレビカメラを扱うと、見にくくてしょうがないのは、背景が動くからだそうです。だからカメラというやつは、できるだけ、本当は固定しなければ駄目なんです。ところが、人間の目はよくできていて、周辺視野は固定して、中心視野だけを動かしているんです。
◾人間は速さを出そうとする時は体のうねりを使う、つまりムチの原理を使う。普通の人でも音速を超える(音は音速の壁を破る時の衝撃波)。しかし、時間と距離が掛かる。
それで私の場合は身体をバラバラにして、その割った身体を、同時に並行処理的に使うわけですが、そういう説明をはじめるとほとんどの人は分からなくなってしまうんです。
◾「固定的な支点をなくしていく」
同時並行処理は速い。速くするために支点を外す➡️支点が動く、支点が複数あるから速い(普通は一個)。
◾しかし支点を消しているうちは、向こうは、どっちから来るかという情報が来ないために、対策はたてられないわけです。それで怖いし不安定になる。
つまり事前情報がなかったら、人間って対策のたてようがないということですよね。
野口三千三さんも最初に、まず力を抜くということを言います。体操というのは、力を入れることだと誰もが思っているけれど、そうじゃなくて力を抜くところから始まるんだ、と彼は言ってます。
◾今の学歴というのは、要するに江戸期の身分制度が解体した後の代理身分制度みたいなものなんですね。
丹田
ところが、腹というのは骨がないですから、腹の部分に支点を置くようにしても、普通の意味での支点とは、全然違うんです。感覚的に丹田を支点にしても居付きがなくなるというか、しっかりしていながら自由自在で具体的には技がますます利くようになるのです。
べつに下腹から何か得体のしれない力強いが出るわけではなくて、支点をそこに置くと、全身がうまく協調的に動いてくれるんじゃないか、ということなんです。
単に何か信仰的に、下腹丹田に力を入れろというんじゃなくて、そこに力の支点が集まるような身体操作をうまくやっていくと、身体中、全身がそれぞれ無理のない範囲でエネルギーを出し、それが強大な力になるのではないでしょうか。
加齢によって体力が衰えても、使い方がうまくなっていれば、その動きの回路というか、それがうまく整理されていて、長きにわたって、無駄のない効率のいい動きができるだろうと思うんですね。
◾何でああいう方法論が発達したかというと、キリスト教世界にしても、ユダヤ教世界にしても、イスラム世界でも、社会的な押しつけというのはさっきのお話の保険制度どころじゃなく徹底的にすごいから、それに対抗し実証してみせるために科学は発達してきたのです。
つまり、そういう社会的な押しつけの解毒剤として発達したわけです。
◾スランプなんて、自分のある状態を良いとして、それにこだわるから起こるので、たえず先を研究していれば起こらないんですよ。
◾やはり呼吸法っていうのは洗脳システムに直接的に関わってきますからね。呼吸の仕方を教えると、オウムだってそうですけれど、特定の考えが無批判に受け入れられてしまったりします。ですから呼吸のことは私は言わない。呼吸法を説きながら私の意見を言うと「その人の主体的判断を奪ってしまう」という感じがすごくするんです。人の美意識を鈍らせてしまうのが一番こわい。その人がその人であり続けるのは結局は美意識しかないと思いますから。
◾イングリッシュガーデンって、当時のイギリス人が山形県の農村を理想にして作ったものだったということが分かったんです。
◾土台がしっかりできているから、かえってそれにこだわって動きが遅いということもある(武術的な動きから見れば二重手間)。
終戦直後に、教科書の都合の悪いところに墨を塗ったでしょ。これはきれいに消されたんですね。これを経験したのは僕らの世代だけなんですが、それは特殊なことだった。だから教科書の検定が、相変わらず続いている。
◾公教育では哲学も宗教も教えない。今まで宗教家には麻原みたいな人もいるということを、誰も教わったことないんです。
◾外科医の称号は英語では未だに正式には「ミスター」。「ドクター」というのは内科医。直接に身体をいじる職業は、下等な職業とされていた。産婆、解剖医、外科医、床屋、ペディキュア師、これは全部同じ立場の職業です。
◾僕が反体制を信用しないのは、反体制は引っ操り返すと体制になるからです。
◾縄文の人が弥生の土地に住まわせてくれとなった時にできること➡️不浄の仕事、狩猟採集民、動物の皮剥ぎから、革細工。なぜ日本人は四つ足を食わなかったのか。「あれは縄文人の食うものだから、俺たちはそれは食べない」
◾法は解釈。
◾外国➡️言語が世界を規定。「はじめに言葉ありき」、「言葉にならないことは伝える意味がない」、言葉にならない=他人に言えないから、ないと同じ。
日本➡️重要なことは文字や言葉に言い表せない。言葉が現実に規定される。
◾日本語の持つその曖昧さを持った広がりが、独特の許容さを持ち、逆にそういう日本の共同体意識で曖昧なものが曖昧なまま奇妙に生き延びておかしくなってくる元にもなっている。
◾まず前に体を切って体を捻らず、全体がそのまま向きを変えて後を切る。普通の人がやるとまず腰を捻っておいて後から刀を持った腕や肩が追っかけるんですが、そうじゃなくて全部がいっしょに動く。
ところが今の体の使い方というのは、みんなやっぱり捻ってしまう。そのため全然体重差をカバーする方法がなかったのではないでしょうか。
体を捻らない、つまり歩く時に現代のように左手と右足がいっしょに前に出るような動きではない身体操作法。
村上春樹「自分は走り始めてから文章のスタイルも何も全部変わったから、心身というのは相互に非常に影響しあうものだ。身体を変えると物の書き方も変わってくる」
身体が変わればまず間違いなく考え方も変わるだろうけれど、変わってしまうと何か以前と違って全然面白くなくなったり、あるいは公平な見方の人が、得意なものができたりすると片寄って全体が見えなくなるということもありますね。
◾その質的に違った動きをどうやって引き出すかっていうと、たとえば、ふだんなら見逃してしまうような身体の自動制御運動の長所と短所を自覚するような稽古法を組み立てる設計のセンスだと思うのです。

バカの壁

◾物事は言葉で説明してわかることばかりではない。
◾脳内の一次方程式 y=ax
何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応(出力)がyというモデル。aは「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか。
特殊なケースとしてa=ゼロがある。入力あっても出力なし、行動に影響しないということ。人によって現実が違うというのは、実はaだったらaがプラスかマイナスか、a=ゼロかの違い。
A=ゼロの逆は、a=無限大。原理主義。ある情報、信条がその人にとって絶対のものになる。
◾個性は脳ではなく身体に宿っている(脳は社会生活を普通に営むために、「個性」ではなく、「共通性」を追及する)
◾生き物➡️どんどん変化していくシステム。情報➡️その中で止まっているもの。
流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。真理は動かない、不変だ、と思っていた。実はそうではなく、不変なのは情報。人間は流転する、ということを意識しなければいけない。
現代社会=「情報化社会」、意識中心社会、脳化社会。
近代的個人=己を情報だと規定すること。本当は常に流転するのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。だからこそ人は「個性」を主張する。その思い込みがなくては「個性は存在する」と言えないはずです。
◾『平家物語』と『方丈記
昔の書物を読むと、人間が常に変わることと、個性ということが一致しない、という思想が繰り返し出てくる。
では中世以前はどうか。平安時代というのは、まさに都市の世界。人間が頭の中で作った碁盤の目のような都市。今の我々とよく似た時代。
◾人間は変わるが、言葉は変わらない。情報は不変だから、約束は絶対の存在のはずです。しかし近年、約束というものが軽くなってしまった。
人間は変わるのが当たり前。だから昔は「武士に二言はない」だった。
ソシュールによると「言葉が意味しているもの」(シニフィアン)と、「言葉によって意味されるもの」(シニフィエ)、という風にそれぞれが説明されています。
前者は頭の中のリンゴ(a、イデア)で、後者は本当に机の上にあるリンゴ(the)だと考えればよい。
◾グルグル回しが無意味かといえば、そんなことはない。人間の身体は、動かさないと退化するシステム。筋肉、胃袋、何であれ。脳も同じ。巨大になった脳を維持するためには、無駄に動かすことが必要。刺激の自給自足➡️「考える」。
◾身体を動かすことと学習とは密接な関係があります。脳の中では入力と出力がセットになっていて、入力した情報から出力することが次の出力の変化につながっています(歩けない赤ん坊が何度も転ぶうちに歩き方を憶える)。
◾この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第にその入出力を脳の中でのみ回すことも出来るようになる。脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。
◾大人になると、入力も出力も限定されてしまう。
健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしていることなのかもしれません。
◾同じことをずっとやっているようでも、その人の中での理解だとかプログラムの編成替えが行われる、というのは珍しいことではない。
同じことをやっているのが即駄目だ、という単純な話ではない。
◾つまり首から上の運動の代表は食物を摂る運動で、下は身体が移動する運動。目的まったく別。そう考えると、脳味噌の中で、首のところで切れているのはある意味で合理的です。手がその間に入っているというのも実に理屈にあっている。
◾文明の発達➡️首から下の運動を抑圧することでもある(足で歩く変わりに自動車)。足の移動機能を文明社会は抑えることで発展してきた、ということが出来る。
◾その機能主義と共同体的な悪平等とがぶつかってしまうのが日本の社会です。
◾家族でいえば、大家族とか核家族とか、そういう形態は、あくまでも何を幸福として目指すのかということの結果でしかない。同様に、あくまでも共同体は、構成員である人間の理想の方向の結果として存在していると思います。「理想の国家」が先にあるのではない。
◾「人生の意味」「意味は外部にある」
◾脳化社会である都市から、無意識=自然が除外されたのと同様に、その都市で暮らす人間の頭からも無意識がどんどん除外されていっている。しかし人間、三分の一は寝ている。だから、己の最低限三分の一は無意識なのです。
それもあなたの人生だ、ということなのです。
無意識を意識しろ、といっても無理な話。ただし、あくまでも自分には無意識の部分もあるのだから、という姿勢で意識に留保を付けることが大切なのです。
◾自分の中にも別の自分=無意識がいるし、それは往々にして意識とは逆の立場を取っている。
だから人間は悩むのが当たり前。それなのに悩みがあること、全てがハッキリしないことを良くないことと思い、無理やり悩みを無くそうとした挙句、絶対に確かなものが欲しくなるから科学なり宗教なりを絶対視しようとする。
◾ホームレスでも飢え死にしないような豊かな社会が実現した。ところが、いざそうなると今度は失業率が高くなったと言って怒っている。もうまったく訳がわからない。
◾長嶋さんに限らず、言語能力が通常と異なる人が、その代わりに大変な才能を持っているというケースは実際に珍しいことではありません。
◾天才というのはひらたく言えば、A→Dというプロセスを省略してしまったり、あるいは一部の能力に欠けている人だ、ということができます。
◾しかし、ピカソの場合は、普通の人間にはいじれない空間配置の能力を自在に脳の中で変えて、絵として表現することが出来たのです。
◾学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。
◾情報ではなく、自然を学ばなければいけないということには、人間そのものが自然だという考えが前提にある。
◾あんたが一〇〇%正しいと思ったって、寝ている間の自分の意見は入っていないだろう。三分の一は違うかもしれないだろう。
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。
◾今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。
自分自身が違う人になっちゃうかもしれないと思ったら、絶対的な原理主義は主張できるはずがない。
◾一元論と二元論は、宗教でいえば、一神教多神教の違いになります。一神教は都市宗教で、多神教自然宗教でもある。
都市宗教は必ず一元論化していく。それはなぜかというと、都市の人間は実に弱く、頼るものを求める。百姓には、土地がついているからものすごく強い。
この強さは、人間にとっては食うことが前提で、それを握っているのは百姓だということに起因しています。
今は殆んどの人が都会の人間になっていますから、非常に弱くなった。その弱いところにつけ込んでくるのが宗教で、典型が一元論的な宗教です。
◾楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる。aを固定してしまう。それは一元論の方が楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから。
徳川家康「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」
私は遠き道を行くどころか、人生は崖登りだと思っています。
原理主義に身をゆだねるのは手を離すことに相当する(カルト宗教)。
◾崖を一歩登って見晴らしを少しでもよくする、というのが動機じゃなくなってきた。知ることによって世界の見方が変わる、ということがわからなくなってきた。
◾「人間であればそうだろう」ということは、普遍的な原理になるのではないか。
◾安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。

ワクチン副作用の恐怖

◾つまり定期接種や推奨というのは、「国はワクチンをお勧めするけど、命じているわけではない。打つかどうか決めるのは、本人もしくは親なので、なにか不都合が生じたら自己責任ですよ」という意味です(ワクチン事故·自己責任の原則)。
◾このエピソードからは、自国で天然痘患者が発生しなくなっても、ワクチンの副作用で多数の死者や脳障害がでても、世界各地でウイルスの撲滅がすすんでも、種痘をやめる気にならないという、厚労省と専門家たちの精神状態がみてとれます。ーーそういう気質は、はたして過去のものなのでしょうか。
◾「副反応疑い」という便利な業界用語
副反応と副作用、実はどちらも、ワクチンという医薬品がひきおこす症状をさすので、同じ意味です。
◾そこで、免疫システムを目いっぱい活動させるため、不活化ワクチンに“アジュバンド”という物質をまぜるのが普通です。アジュバンド➡️“免疫補助剤”ないし“免疫増強剤”の意。アルミニウム化合物他。これによる副作用も。
◾ーー今日インフルエンザと診断される人たちの九九%以上は、検査さえうけなければ、“ただの風邪”と診断されているはずです。
思いおこせばインフルエンザは、むかしは“流行性感冒”や“流感”と呼ばれていました。すこしきつめの風邪、というのが、みんなのうけとり方だったのです。ところが専門家たちや厚労省がこぞって“インフルエンザ”という、どこかおそろしげな病名に乗り換えたため、人びとは風邪とはちがうと思いこまされたようです。
◾「インフルエンザ脳症は薬害だった」
◾ーー鎮痛剤には、それだけで脳症が発生する危険性があり、その危険性をインフルエンザなどが増幅して具体化し、脳症をひきおこすのです。
◾そもそも解熱剤で風邪やインフルエンザが長引き、サイトカインストームが生じるのは、クスリの種類が問題なのではなく、熱を下げることが原因なので、解熱剤はすべて危険だとおぼえておきましょう。
◾残る問題は、種々の施策、つまり、ワクチン接種、インフルエンザウイルス検査キット、抗ウイルス薬などを導入·推進することにより、人びとはより健康になったのか、ということです。
◾そもそもかつてワクチンは、「一本打ったら、次の接種まで一~四週間あけろ」というのが医療常識でした。各ワクチンの添付文書には、今でもそのように書かれています。
ギニアビサウの場合には、同時接種で死亡率が四倍になりました。日本でも、各種ワクチン同時接種の死亡率が、単独接種の四倍前後になると考えておくのが安全です。
◾免疫は一度に一種つけるもの
アジュバンド
ワクチンにアジュバンドを入れると免疫システムがより活性化するため、ワクチン効果は高くなります。半面、副作用も増やすので、諸刃の剣です。
ワクチン接種部位の組織をとって調べると、マクロファージという免疫細胞が増殖しており、細胞の中にアルミニウムが蓄積しているのがわかりました。
ワクチン接種から筋肉痛発症までの期間は、半数で一一か月以上もあり、患者·家族が「ワクチンが原因かも」との疑いを抱くことは難しいでしょう。
アジュバンドと発がんの可能性
ワクチンを接種すると、動物に発がんがみられる。
獣医の世界では、犬、猫、フェレット、馬などのワクチン接種部位にしばしば、軟部組織のがんである“繊維肉腫”が発生することが知られています。そのため獣医教育の場では、「犬や猫のワクチンは背中の中央部に打つな。足に打て」と教えています。その心は、背中だと肉腫ができたときに手術困難だけど、足ならば切断すればいい、というわけです。
ここでもアジュバンドが関係。肉腫が生じた部位(つまりワクチン接種部位)の組織を検査すると、アルミニウムアジュバンドが残存していることがわかる。
犬猫は肉腫も比較的早くに生じるが、対して人の一生は長いので、肉腫ができてくるとしても、接種後数十年たってからだと考えられる。

遺言。

◾以来私は、読んだ本に気に入らない箇所があれば、墨を塗りなさいという意見を持つようになった。
◾つまりネコは字の形を見ても、とりあえず意味不明に違いないから、まず黒色という感覚所与(感覚器に与えられた第一印象)で判断する。ヒトがそうしないのは、教育を受けてきたからである。
◾感覚所与を意味のあるものに限定し、いわば最小限にして、世界を意味で満たす。それがヒトの世界、文明世界、都市社会である。それを人々は自然がないと表現する。
中島敦『古譚』「文字禍」 単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有させるものは、何か?ここ迄思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。
文字の場合ですら、感覚所与と意味はときに分離するのである。
◾意識つまり頭の中では、重い球が先に落ちる。ではというので、目で見てみると、重い球が先に落ちるわけではない。すなわち感覚所与が意識に反抗する。この時に感覚所与を優先しなさいというのが、実験科学なのである。
◾感覚所与(現実·事実)と意識(理論)の対立
科学実験とは、自分の側から見れば、自分の感覚と意識の解離を、感覚優位で解消することなのである。
自然科学が追っているのは、意識が正しいか、感覚所与が正しいか、ではない。内部の意識と、感覚所与と、両者の存在を認めた時に生じる、両者間の最良の対応関係なのである。
理論を事実が訂正するのが科学実験。
常識には反するかもしれないけれど、じつは私は現実も頭の中にあると思っているのである。
◾「分けない主義者」は同一性つまり意識を重視し、「分ける主義者」は違いの存在、すなわち感覚所与を重視する。
◾結論的にいえば、科学とは、我々の内部での感覚所与と意識との解離を調整する行為としてとらえることができる。
◾動物は交換を理解しませんよ。
猫に小判」になってしまうのは、動物にはイコールがないからなのである。
◾感覚はいわば外の世界の違いを捉えるもので、それを無視すれば、「すべては交換可能だ」という結論になる。脳内ではすべてが交換可能、なぜならすべては電気信号だからである。
◾ヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出したのである。
◾すべての馬の特徴を含んだ、理想的な馬が存在する。それをプラトンは「馬のイデア」と呼んだ。具体的な馬とは、イデアの仮の姿である。
◾感覚は違うといい続け、意識は同じといい続ける。その矛盾こそが、いわば西洋哲学を成立させた。
◾ヒトの意識が「同じ」という機能を持ったからこそ、動物の時代からあったはずの感覚所与と衝突するだけのことである。
◾つまりサルの脳のこの部分は、誰かがアイスクリームを食べているのをみても、自分が食べても、「同じように」反応するわけである。
◾それならそれは普遍的に宇宙に存在していいのであって、あんたの頭の中だけにあるのではない。それが津田を代表とする数学者の考えである。
◾ヒトの意識の特徴=「同じだとするはたらき」であり、それで言葉·お金·民主主義社会の平等等が説明できる。
◾つまり目からの文字を通した情報処理も、耳からの音声を通した情報処理も、言葉としてはまったく「同じ」になる。それなら脳の中では視聴覚両方の情報処理過程が「同じになる」場所があるはずで、それは視覚の一次中枢からも離れており、聴覚の一次中枢からも離れているはずである。それが言語中枢であろう。
目と耳どちらからの情報も、脳の中では電気信号に変えられるため、両者がぶつかるところでは、どちらも「同じように」扱われるはずである。だから脳の中では目と耳がつながってしまう。まさに連合野である。目という文字と、メという音を、「同じ」ものとして扱うことが可能になる。
◾「同じ」を繰り返すことで、感覚所与の世界(無限に多様)から離脱し、一神教(すべてを含んだ唯一の存在)に至ることが可能となる。八百万の神々は底辺に位置する。
◾「同じだとする」能力=「抽象化」
◾宇宙的に観察すれば、意識は秩序を増やしてなんかいない(掃除➡️部屋の秩序が増す➡️その分の無秩序は外界に排出/文明は秩序➡️大規模な文明➡️自然には無秩序が増す➡️自然破壊)。
◾「感覚からわれわれが受け取るもののうち、言語化できない部分、ないし言語化しようがない部分をクオリアという」
◾数学が最も普遍的な意識的行為の追求、つまり「同じ」の追及求だとすれば、アートはその対極を占める。いわば違いの追及なのである。
◾時間を含む過程を、本質的に時間を含まない情報に、どう変換するか
◾時空とは、時間を内在する聴覚運動系と、時間を内在しない視覚系を折り合わせるために、意識の内部に発生した。
◾それなら言葉の前提である目と耳の共通処理から時空が発生するというしかない。