失われてゆく、我々の内なる細菌

◾理由は私たちの周囲にある。抗生物質の乱用や帝王切開、消毒薬の使用などである。抗生物質に耐性の結核菌は以前から問題であった。一方近年は、クロストリジウム·ディフィシルなどの腸管細菌の薬剤耐性や、メチシリン耐性ブドウ球菌(MRSA)の流行が問題となっている。こうした流行の背景には、抗生物質使用による選択圧がある。
ヘリコバクター・ピロリ
この細菌は、ジキル氏とハイド氏のように二面性を持っていて、人体を障害することもあれば、人体を障害から防御することもある。
◾フローラ(Flora)は、ヒトのなかで生きる無数の細菌に対する古い呼称。しかし細菌は植物ではない。現在では「マイクロバイオータ」と呼ぶ。マイクロバイオータとその宿主との関係を含めたものは「マイクロバイオーム」と呼ばれる。
◾微生物は地球上の生物質量(バイオマス)の大きな部分を占める。それは、哺乳類、爬虫類、海にいるすべての魚、そして森林を合わせたより大きい。
微生物の存在なくして、私たちは食べたり呼吸をしたりすることさえできない。一方微生物は、人類の存在がなくても問題なく生存する。
◾マイクロバイオームの形成は胎児期からではなく、出生直後から始まる。
◾マイクロバイオーム全体をすっかり失うことは、肝臓や腎臓を失うに等しい。
◾ピロリ菌は(胃において)酸やホルモンの産生、免疫維持に対し重要な役割を演じる。
◾大腸の細菌の密度は体内で最も高い。1mlの大腸の内容物あたり、地球上の全人口より多い。
◾便=細菌と消化管細胞の混合物に水が混じったもの。
◾最近の研究では、植物由来の食物のみ、動物由来のといった食事への切り替えは、細菌叢に変化をもたらすことが分かっている。しかし、それは食事を変えた期間しか持続しなかった。
◾私たちの身体内外に存在する遺伝子の99%が細菌由来で、残りの1%がヒト由来ということになる。
◾腸内細菌の遺伝子の数が多い群では代謝が活発で、少ない群では肥満や糖尿病、動脈硬化、高血圧と関連した所見の集合である代謝症候群の傾向が見られた。
一方で、代謝活動を上げる食事療法が腸内細菌の遺伝子数の上昇をもたらしたという論文もある。
抗生物質の過剰使用や帝王切開など、現在よく見られる医療とともに、ヒトは古いマイクロバイオームの世界と未踏の現代世界の間に横たわる無人地帯(ノーマンズランド)へ入りつつあるのかもしれない。
◾街が大きくなり、貿易や交通を通して行き来が多くなるにつれて、人類に生来的に寄生していた微生物ーーその大半は風土的か潜伏感染するものであったーーに加えて、自己保存のために大規模な人口を必要とする伝染性の病原体が繁栄していった(➡️ワクチン開発、抗生物質の発見)。
◾皮肉なことに、私は病院が危険な場所になりうることを知っていた。ベッドから落ちる患者や、間違った薬を処方される患者、新たな感染症に罹る患者もある。
◾肺炎や産褥敗血症、髄膜炎、その他重篤感染症で来院する少数の患者に抗生物質を投与することを問題にしているわけではない。しかし、鼻水が出る、あるいは皮膚の軽い感染症などで受診する無数の健康な人への抗生物質投与については疑義を呈したい。
問題は子どもの世代。予想もできない脆弱性を抱えることになる。
◾こうした(家畜に対する)治療量以下の抗生物質による効果を、彼らは「成長促進」効果と呼んでいる。
◾「成長促進」には常在細菌が必要。
◾オキシテトラサイクリン(ヒトによく使われるテトラサイクリンに近い抗生物質)とスプレプトマイシンは、有機農法のリンゴやナシ栽培にも使われている。ベト病と呼ばれる果樹の病気と戦うためである。
◾さらに抗生物質耐性菌は、肥料や土壌のなかに混入することで、生態系における耐性の集積にも貢献している。
◾家畜から魚介類や果実まですべてを集中的に生産するシステムを持っている近代農業は、抗生物質耐性菌と同時に抗生物質そのものを直接ヒトに持ち込む。
◾成長促進効果。若年時に摂取した抗生物質が家畜を太らせ、その成長過程に変化を起こすならば、私たちの子どもに抗生物質を与えるときにも同じことが起きるのではないだろうか。
抗生物質の過剰使用や出産のあり方の変化、山ほどの薬剤の家畜への投与は、敵であるか味方であるかにかかわらず、私たちの細菌に影響を与える。細菌の喪失➡️肥満、若年性糖尿病、喘息、その他の病気といった現代の疫病を引き起こす?
◾胃常在細菌の構成変化によって、免疫系の神経質な振る舞いが増えているように見える。
◾ピロリ菌の喪失に関連した新しい病気が増加し始めている。
◾ピロリ菌の細胞毒関連遺伝子A(CagA)が多いほど胃潰瘍胃がんになりやすく、少ないほど胃食道逆流症になりやすい。
◾ピロリ菌の根絶が食道の病気の発症率を二倍に引き上げていた。
◾CagA陽性ピロリ菌は、胃食道逆流症に加え、喘息の予防にも最良の菌。
◾ピロリ菌の存在はアレルギー反応に抑制的、あるいは予防的に働くのである。
◾子どもの胃中ピロリ菌が花粉症を予防している可能性。
◾ピロリ菌に感染している人はアレルゲンに対する皮膚反応も低下。
◾ピロリ菌は免疫系、つまりアレルギー反応を抑制する人体の能力に対して、何らかの全体的な影響を与えているように見えた。
◾喘息、花粉症、アレルギー性皮膚炎という、異なるがしかし関連のある三つの病気で同様の結果が示された。
◾幼少期にピロリ菌を保持していると、宿主がゴキブリやブタクサに遭遇したときに、宿主はアレルギーがひどくなる前に免疫反応のスイッチを切ることができる。
◾ピロリ菌に対する私の考え方は、ピロリ菌は人生の前半には健康にとって利益をもたらす一方、晩年においては健康に対する障壁となる、というものである。

抗生物質を早期投与すればするほど、家畜の発育過程は変化する。最も重要な所見に、どの抗生物質も家畜の成長を促進するという事実がある。どの抗生物質もすべて効くのである。化学的組成の違いや構造の違い、作用機序の違い、標的細菌の違いにもかかわらず、である。
それは、抗生物質が一般的に細菌に与える影響が家畜の体重増加に寄与していることを示唆する。
◾この結果は、よりよい栄養と清潔な水に加えて抗生物質投与が、ヒトの身長に影響を与えることを部分的に説明する。
◾私たちは治療用量以下の抗生物質投与が、おそらくそれが低用量であるがゆえに細菌の多様性に明確な影響を与えないことを見出した。
◾興味深いのはそこからだった。糞便か盲腸内容物かにかかわらず、治療容量以下抗生物質の投与は腸内細菌の人口構成を変えた。それは、腸内細菌の機能をも変える。
◾ある種の大腸内細菌が未消化食物を消化し、短鎖脂肪酸に変える。それが大腸で吸収される。短鎖脂肪酸の割合は、私たちが毎日摂取するカロリーの5~15%に達する。細菌がこの「未消化の」食物からより効率的にカロリーを抽出すると、宿主はより多くの栄養を得ることができる。その結果宿主が太るのかもしれない。
抗生物質投与群の肝臓は脂肪を産生し、また、太った動物の末端へそれを届ける遺伝子を多く発現していた。
◾この実験でローリーは、抗生物質投与が誘発する発達過程の変化が、細菌の変化のみによって達成されることを証明したのである。
◾アモキシシリン投与群では大抵細菌の種類の多様性は元に戻った。しかしタイロシン投与マウスでは、最後の抗生物質投与から数ヶ月経っても多様性は回復しなかった。
◾若年性糖尿病は帝王切開によって生まれた子ども、背の高い男の子、生後最初の一年間に体重が大きく増えた子どもに多く発症する。
抗生物質の投与回数が多いほど、セリアック病発病リスクは高くなった。抗生物質メトロニダゾールを処方された人は、投与されなかった人に比較してセリアック病発症の危険性が二倍も高かった。
◾ピロリ菌は、セリアック病発症以前の生後早期に感染する。私たちはまた、ピロリ菌が免疫を抑制することを知っている。ピロリ菌は、制御性T細胞を介してアレルギー反応を抑制する。制御性T細胞は免疫反応を抑えたり、そのスイッチを切ったりする細胞である。ということは、ピロリ菌根絶は、この現代の疫病にも寄与しているのだろうか。(➡️セリアック病の兆候を持つ人のピロリ菌感染率は低かった)
◾細菌の多様性喪失によって起こる考慮すべき別の状況は、慢性で虚脱性の腸疾患、いわゆる炎症性腸疾患(潰瘍性大腸炎クローン病)である。
自閉症患者の脳は、そうでない人と先天的に違う。複雑な相互作用、とくにニュアンスや非言語的な合図を介した他人とのコミュニケーション能力が障害されている。
私の仮説は、腸内細菌が脳の初期発達に関与しているというものである。
腸の神経内分泌細胞は、体内セロトニンの80%を産生している。腸管細菌の多くは、脳が正常に機能するための物質も産生。
◾私の中心的考えをくり返しておくと、それは、常在菌が繁栄するにしたがい、ヒトはそれら細菌とともに、代謝、免疫、認識を含む集積回路を発達させる、というものだ。ところが私たちは、常在菌へのこれまでにないほどの激しい攻撃に直面している。
幼少の成長期にマイクロバイオームの構成が変化を被ることがその原因ではないだろうか。
◾少なくともマウスでは、数ある抗生物質のうちどれに対する暴露であっても、ときに致死的である感染への感受性を増加させる。
◾ボンホフとミラーが何十年も前にマウスで示したように、抗生物質への暴露によってヒトはサルモネラ感染により感受性が高くなることが示唆されたのである。
◾しかし感染に対する感受性の増大は、抗生物質使用の隠れたコストのひとつなのである。
抗生物質がヒト常在菌にどのような長期的影響をあたえているのか(本書の主要な問題意識)。
◾一週間の抗生物質治療が耐性菌を三年以上にわたって持続させ、しかも抗生物質そのものの標的菌から遠く離れた場所で存続させる。
◾しかし抗生物質治療群では、治療前に存在していた細菌の多くは消え、他の菌株の細菌によって置き換わっていた。
◾肝心なのは、一度そうした稀な細菌がゼロになってしまえば、決して元に戻ることはないということである。
◾こうした大増殖に対する引き金は、宿主がある食料を初めて口に入れ、その食料に対する消化酵素をその稀少細菌のみが持っていたような場合に引かれうる。
◾細菌の研究は、人々が常在細菌の15~40%と、それが持つ遺伝子の多様性を失っていることを示している。
◾私が心配しているのは、抗生物質が効かなくなるということだけでなく、内なる生態系崩壊のために、無数の人々が病気に罹患しやすくなるということである。
◾腸内細菌の攪乱がこうした病気の根っこにあるとすれば、糞便移植によって腸内細菌を回復することが解決策となるという考え方は正しい。
抗生物質は、人間に被害をもたらさない細菌にも影響を与える。現在二分の一から三分の一の出産がそうである帝王切開もそうだ。自然な細菌叢を変化させることは、複雑な結果を生み出すに違いない。

◾本書翻訳開始の少し前から、私たち長崎大学熱帯医学研究所国際保健学分野の研究チームは「プー(うんち)·プロジェクト」と呼ぶ研究プロジェクトを始めようとしていた。ヒトの細菌叢が完全に変化し稀少な細菌が消えてしまう前に、世界各地から糞便を集め、そこに常在する細菌叢を液体窒素のなかで保存し、次の世代に手渡すというプロジェクトである。
◾タンパク質は加熱することによって栄養を摂取しやすくなった。加熱調理された肉の消化に必要なエネルギーは生肉のときより少なくなる。
◾生物相=動物相、植物相、微生物相(マイクロバイオータ)
◾「叢=Flora」。以前は細菌は植物相に含まれるとされたため、細菌叢と言われたが、現在は微生物相と分類されるため、細菌に叢が用いられることはなくなった。