唯脳論

◾ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。
◾「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」
◾フロイドはだから「無意識」を「発見」したのである。私はそれとは別な「無意識」を発見したと思っている。それはたとえば数学である。数学の論理は、それがある形で脳内にあるからこそ、見つかるのである。しかし、数学者は、そのこと自体を「意識してはいない」。
◾脳と心=構造と機能
心臓血管系(物)と循環(機能)とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。
◾心が脳からは出てこない=「機能は構造からは出てこない」
唯脳論では、「心の原因としての脳(時間·因果関係)」を扱うのではない。心の示す機能に「対応するもの」としての脳、あるいは脳という構造に対応するものとしての「心という機能(形態学·対応関係)」を扱う。
◾構造とは、脳なら脳を、より視覚系寄りに扱うやり方であり、機能とは、同じものを聴覚·運動系寄りに扱うやり方。
◾死体があるからこそ、ヒトは素朴に、身体と魂の分離を信じたのであろう。これを生物学の文脈で言えば、構造と機能の分離ということになる。死体では、肝、腎、脳といった構造は残存しているが、もはや機能はない。
◾私の意見では、構造と機能とは、われわれの「脳において」分離する。「対象において」その分離が存在するのではない。
◾死体において、構造と機能が分離したかに見えるのは、「あたかも分離したかのように」見えるだけのことである。
◾心身が二元に見えるのは、われわれの脳が、構造と機能を分離する性質を持つからである。
◾受容器(皮膚)と効果器(筋)の間に挟まった部分が膨らんだものが脳(中枢神経系)。『ドグラマグラ』「脳は身体の電話交換局にすぎない」「全身の細胞が思考する」。
◾教えなければならないということは、計算のような能力には、後天的な部分がかなり含まれている、ということである。言語の研究家は、言語の基礎には、ある構造があるという言い方をする。その構造は、私はじつは脳の中にあると思っている。構造主義における構造とは、しばしば脳の構造に他ならない。もっとも私は、その構造の全体を「前提」にしているわけではない。「教え込まれる」ことと、「基礎構造の成立」とは、同時に起こる過程かもしれないからである。ウィトゲンシュタインに言われるまでもない。
◾「脳が脳を知ることが意識だ」
◾「手の痛みは、それが手にあるから心に知られるのではない。それが脳にあるからだ(デカルト·幻肢について)」
デカルトを我流に翻訳するなら、「私が考えている」と言語で表現される状態(cogito)があって、それはつまり「私が存在する」と言語では表現される状態(sum)なのである。それがつまり脳の機能であり、だからこういうこと全体が言語で表現される。なぜなら言語こそ典型的な脳の「意識的機能」、つまり「脳が脳を知っている状態」だからなのだ、と。
◾視覚は時間を疎外あるいは客観化し、聴覚は時間を前提あるいは内在化する。
この関係は、すでに述べた構造と機能との関係にじつはよく似ている。構造では時間が量子化され、機能では流れる。構造と機能という、この二つの観念がそもそもヒトの頭の中に生じるのは、いわば脳の視覚的要素と聴覚的要素の分離ではないのか。構造と機能とは、どう考えても、同じ要素のことなる面だと思われるからである。同じ要素を、ヒトの脳の都合で二つに割っている。
ヒトの意識的思考が、この二項対立にいかに影響されているか➡️物理学基礎、光は粒子でもあり波動でもある。視覚系の脳の方から話を詰めれば粒子だが、聴覚系の脳の方から話を詰めれば波動になる。
構造主義と機能主義=視覚主義と聴覚主義(基礎医学では解剖学と生理学)
ひょっとすると、ヒトの脳は、視覚と聴覚という本来つなぎにくいものを、いわば「無理に」つないだのではないか。
◾視覚言語と聴覚言語はある程度並行して処理が可能。
◾視覚と聴覚とは、いわば脳の都合で結合したのであり、その結合の延長上にヒトの言語が成立しているはずである。
視覚と聴覚という、刺激の種類も時間に関する性質もこれほどみごとに異なる二つの感覚を、「言語」として統一する。結論を言えば、この連合がうまく成立するに至ったことが、言語成立とほとんど同義だと私は考えている。別の言い方をするなら、こうした異質の感覚をうまく連合する方式を考案しようとしたら、その好例として、なんのことはないヒトでは言語ができてしまった。
◾「形の真髄はリズムである」。
つまり、視覚対象の抽象化が行き着く果てまで、「形」を徹底的に考える。そこで、だしぬけに「リズムだ」と膝を叩く。悟りが開ける。
◾形とリズムの「連合」こそまさしく、意識的な「共通感覚」の基本。
◾R·シェルドレイク「形成的因果作用」「形態共振」
乱暴に言ってしまえば、形というものは、なぜか知らぬが時空を越えて突然ポンと転移するものだというのである。
➡️「自分の脳ではこうなっている」という話。「実証」の余地なし、純粋視覚型。
◾異質なものが脳の中ではじめて「連合」するとき、われわれは「わかった」と叫ぶ。
「形はリズム」。私の脳では、両者は直感的には連合していない。私はそれを、他の考察を用いて「やむをえず論理で」つなぐ。「自然に」連合するなら、その時点で私の脳はまた「変る」のであろう。
◾霊長類は、哺乳類としては例外的に視覚系を重視した。ヒトの論理的な苦労のかなりの部分が、ここに発するのであろう。
◾時間を基礎的に特徴づけるもの=変化、繰り返し。変化がなければ時間はない(絵や写真)。しかし、変化のみであれば、ふたたび時間はないであろう。そこでは時間は変化と同義になってしまう。そこに繰り返しが必要となる。繰り返しから、時の「単位」が発生する。
前頭葉には時計細胞と呼ばれるものが存在するらしい。一定の時間間隔で放電。「単位の繰り返し」=リズム。運動系ではリズムが大切。リズムは、身体の各筋の運動を、一つの作業目的に向かって協調させる。一種の時計、メトロノームや指揮棒として働くことに意味がある。運動の統制がとりやすいからである。
◾自己の認識の変化が、自然選択的であると「無意識に考えている」から、「生物が自然選択によって進化する」と考えるのではないか。それならまさしく、ダーウィニズム、ネオ·ダーウィニズム、進化論的認識論、神経ダーウィニズム、これらはすべて投影である。自己の脳が外界に投射されたものである。
ダーウィンと教会の衝突の深層はなにか。それは、古き「等身大以上」すなわち「ヒトを含む生物全体の歴史を説明する原理」との衝突だったのである。
ダーウィニズム=ポパーの定義に従えば、もはや科学ではなく、時間における形の変化に関して、一部のヒトが持つ典型的な考え方の一つ。
◾最後の普遍とは、ヒトの脳である。なにをその中に詰め込もうと、所詮われわれは「脳において思考するという形式」から逃れることはできない。
◾歴史意識=ある文化に置かれた脳の典型的な時間意識。
◾視覚という感覚は、運動と分かちがたく結びついている。前頭葉には、眼球運動にとくに関連する部分の存在すら知られている(前頭眼野)。
◾前頭連合野の一番前方「前頭前野」=運動の「意図」に関わる?
◾「盲目的な生きんがための意志」が「世界に」前提されているのか、かれの「脳の中に」前提されているのか。脳は世界像を創る臓器であることを忘れるべきではない。意志は大脳皮質の地図でいわば視覚と対極に位置するものである。一方はおそらく前頭前野、他方は後頭葉のもっとも後部。『意志と表象としての世界』とは、もし表象が視覚像を意味するとすれば、いちばん前からいちばん後ろまで、ずいぶんきちんと脳全体を包含しているわけである。
◾目的論が成立するのは世界ではない。生物の行動である。
◾知覚系の原理は「濾過」。運動系はその都度の運動全体の適否の判断を、どこかに預けざるを得ず、そこから目的意識が生じる。試行錯誤の原則に基礎づけられる。
自然選択説とは、基本的にはこの機構の投射であろう。
◾そもそも自然選択の思想自体が運動系から発したものであれば、この難点は説明しやすい。知覚系の進化を運動系の原理から説明するのは、ダーウィンの天才をもってしても、なかなか困難であろう、と。
◾脳が運動系についてなにかを「知った」とき、目的論が成立した。
◾力学は目的論ではなく、一対一対応の因果論。力学は数学ときわめて親近性が高く、力学の原理を、われわれが脳の中から「探してきた」としても、どこからどうしてそれを探してきたか、それを意識化することが難しいのである。
量子力学まで来れば、その「客観的真理」が成立しないことはもうわかっている。そこでは、ものごとは「量子的」つまり微分不能になり、最後には、不確定性原理として観測者が顔を出す。観測者とは何者か。それは脳である。同じ脳が、時空の相対性の問題についても、やはり顔を出したことは、大抵の人が知っている。
◾いまでは物理学的な宇宙論に脳、つまり観測者が顔を出すのは、当たり前になってしまった。
構造主義、視覚系、知覚系、実存主義、脳の後
◾機能主義、聴覚系、運動系、意志·目的、脳の前
◾ヒトは「外部の自然」を従え統御し、多くの賢者が、自然はやがてそれに復讐するであろうと語った。自然を甘く見るな、寺田寅彦「天災は忘れた頃にやってくる」。しかし、われわれに復讐すべき自然は、「外部の自然」ではなく、ヒトの身体性であり、ゆえに脳の身体性だったのである。自然は隠れも失われたわけでもなく、われわれヒトの背中に、始めから張りついていただけのことである。