形を読む

◾生物学的にいえば、ヒトは、視覚系がたいへんよく発達する。したがって「ヒトが見る」世界には、視覚の特質が、強く反映するにちがいない。そこから、形態学の、認識論的性質が生まれる。
◾私が形態学の意味や解釈をあつかう理由は一つである。それは、そうしたものが、けっきょく、自分の頭の中の現象だと考えるからである。
◾まったく同じことが、くり返し起こったと思うのは、本人がそう思っているだけである。
◾客観だと思っているのは、じつは自分の頭で、自分の頭がいかにあてにならないか、わかっているからである。そうかといって、他人の頭だって、それ以上にあてになるという保証はない。だからモンテーニュは言う。「どんなに高い玉座に登るにしても、座っているのは自分の尻の上である」
◾脳の本来の役割の一つは、感覚系からの情報をまとめ、外界を認識することであった。その外界を、私は対象と呼んだ。「科学では、自分と対象とが存在する」
◾化学では、はじめに論理が存在する。しかし、形態学では、はじめに対象が存在する。
◾相手が馬鹿だと、本来伝達可能であるはずの情報が、伝達不能になる。「馬鹿の壁」。たとえば、そうした相手が、科学の結論を信じこんだとき、科学が宗教と同じ機能をはたす、という現象を生じる。だから、科学と宗教は、ときどき仲が悪い。結論が導かれる過程を理解せず、一方その結論のみを信ずるという意味で、宗教の結論も、科学の結論も、御託宣にほかならない。
◾情報の伝達という面からいえば、文学は完全な伝達可能性など、問題にしない。いわゆる「客観性」は、要らないからである。「文学がわからない」という台辞は、伝達可能性における受け手の問題、つまり自然科学ではふつう隠されている「馬鹿の壁」が、文学ではタブーではなく、前提としてはじめから許されていることを示す(大衆文学)。このあたりに、ごく一般的な、分科と理科のもめごとの種が、ありそうな気がする。理科では、情報の強制的な伝達が可能であるが、それは相手の頭の中に、その受容系が存在することが前提になっている。
◾ヒトの脳=動物の脳に、剰余が付け加わったもの。構造的にとくに新しいわけでもなく、余分が増えた。それが、人間の文化を生みだした。どういう剰余が、進化的に有効であり、どれが有効でないかは、大きな問題である。
社会生物学、生物の利他行動というおかしな現象=遺伝子の保存。
◾構造を機能という面から説明するやり方は、目的論とも表現できる。ある構造が、「何のためにあるか」を説明するからである。
◾きわめて一般的には、構造から見て、機能を一義的に決定できるような公式は存在しない(機能の転化:爬虫類の顎関節➡️哺乳類の伝音系、松果体=光受容器➡️内分泌器)。