ゆらぐ脳

ゆらぐ脳

ゆらぐ脳

◾肯定的な態度を取った時は、その時見ていた周辺のものも好きになる。
私たちは、好悪や快不快の感情がまず自分の心に生まれて、意思や行動が決定されると思いがちだが、実際には態度や体の姿勢、顔の表情によって感情は左右される。心から体ではなく、体から心。
◾「複雑系」「部分の総和は全体にならない」
音楽は、ただの「音の集合」ではなく、よせ集め以上の「存在」。この意味で音楽は脳と同じ「複雑系」。
◾「分かる」=「名前をつける」
人間は名前を知りたがり、つけたがり、そのことで「分かった」と思いたがる生き物ではないだろうか。
◾この「活動依存的」(自分の活動に影響される)はポイントで、つまり、「脳はやわらかく、自分で自分を書き替える」ということにつながる。
脳の神経細胞には「可塑性」(変形させたらもどらない性質)があり、自分の活動を参照しながら、どんどん、自分を書き替えてゆく······これを私は生命の本質だと捉えています。
コンピュータに「自分」がないのは自分を自発的には書き替えないからでしょう。
◾「合理主義は非効率的」
一見関係のない重要なものは専門分野以外にもある。目的以外を捨ててしまう「合理主義」は、突き詰めたら「自分の分野の知見」と「異なる分野の知見」の間の「つながり」や「派生」に気づけない=「発見」がなくなる。
◾情報はタマネギのよう。実体を追って剥ぎ過ぎると無くなる。気になったものを実際に調べると中身が失われていく情報は多い。複数の有効成分のコンビネーションで効き、何が効くのか科学的に分解すると効かなくなる漢方薬と同じ。
◾「人生の目的は過去から受けついだ遺産に何か『新しいもの』を加えて未来に継承すること」武者小路実篤『人生論』より。
◾「『違いが分かる』とは大脳皮質のその領域が拡大していること」。「違いが分かる」とは、よいものを知っている、ではなく、何がどうよいかを知っていること。よいものを知るには、そうでないものも知る必要がある。どんなにつまらないことでも無意味な経験はないということ。
◾発見は「視点が増えること」で生まれるものではないか。
◾「入力と出力を比較して、中間の演算の形式を知ること」
は、サイエンスの直球の方法ですけれど、自発活動の「ゆらぎ」の研究で分かることは、
「同じ入力でも、毎回同じ出力がなされるとは限らないこと」
なのです。脳では演算形式自体がゆらぎ、演算の姿形が変化。
 私は、この「同じ入力に同じ出力が対応するとは限らないこと」にこそ、脳独特の「やわらかさ」があると考えています。脳は「安定」してしまったらダメで、つまりフラフラと揺らぎのあることが重要なのではないかという方向で私は研究を進めているのです。
◾現時点での私の成果の一つは、神経回路の「構造」に近いものを作りだせたということです。数学者のアラン·チューリング人工知能の評価の基準に「相手が見えない状況で、会話をした時相手を人間と区別できないのならそれを、知能と呼んでいいのでは」と言いますけど、私の作る「構造」は「ノイズを入力したら神経細胞の生命活動に近い出力が出てくる」ものです。
 脳のゆらぎは「ほどほど」のフラフラした状況を生みます。どの刺激にも「ほどほど」のワクの自発活動に留まるようにプログラミングされている······それなら、どんなノイズを入力しても自発活動の「ゆらぎ」のワクに近いものを出力する構造を作りだせたら、チューリング的な意味で「生命と呼んでいいもの」になるのではないかと考えて、そのような構造を作りだすことに成功しかけているのです。
◾海馬は記憶だけでなく未来予測の為にも必要な部位であり、「記憶がなくなれば、未来の予測ができなくなる」。記憶は未来予測を正確に行う為に生まれたと推測できる。
◾「帰納法
列挙されたモノに共通する現象を捉えて「一般化」する思考の飛躍。十個入りの卵を九個割って全て腐っていたら、最後の一個も腐っていると考えることは普通であり、これが「帰納法」。最後の一個は腐っていないかもしれない。帰納的推論には「正しさ」は担保されていない。
仮説はその正しさを証明することはできず、出来ることは間違いを指摘すること(「背理法」)のみ。
「真実が明るみになる」=(1)帰納法により仮説をたてて、(2)その反例を見出して「仮説は間違っている」という事実を証明すること。
帰納法によって立てられた仮説(すべて帰納法で立てられる)は、「否定」はできるが、「肯定」はできない。