運命は変えられない、同時に「自由である」という実感もある。「それはそれで事実だろう」。矛盾しますが、それが、この世界の構造に違いない。21歳のときに、どうしようもないほど、そう強く確信してしまったんです。
「この確信は生涯変わらないだろう」、何かの宗教を信仰するのではなく、一から自分で「運命は決まっていると同時に自由」という問題に取り組んでいこうと決めました。
◾自己の運命を受け入れられれば、自由で、幸せになれる
ささいなことまで決まっているからこそ、運命であるはずです。ただ、わたしは「完璧に決っている」と「完璧に自由」とが同時存在するという矛盾そのものを両立させようとしているのです。
受動意識仮説は「運命論か」と聞かれると、運命論であり、運命論でない。わたしたちは主観的には、つまり意識下では自由意思で自己決定していると感じますから、運命が決まっているとは実感しません。しかし、脳神経科学の結果として、意識下における自由意思はないことが示されている。運命は決まっているということになるんです。
決まっているからこそ安心で、すべてが上手くいっていると考えられます。どう味わうか。
「すべては決まっている。でも、というか、だからこそ自由である」というところに帰着していきますね。
「無敵の境地」自分のあるべき時空間にあり続けること、クラインの壺の内側と外側の同時存在性を身体で把握していること、それが結果として負けないということになる。
ですから、わたしなりの「武術」の定義は、「矛盾を矛盾のまま矛盾なく、取り扱う」ことなんです。「矛盾」と「矛盾でない」を超えて「矛盾のまま取り扱う」。
三脈探知法。
無意識に習得した技能は、自在に応用できる(例:母国語、職人の「技は盗め」)。
意識的に覚えようとして覚えたことや、自発性のない反復稽古は「型にはまる」、応用が利かず創造性もない。
人間は、相手の意志というか意識に反応している。
「若い日に造り主を覚えよ」「若い日に人間いかに生きるべきかを真剣に考えよ」自分という作品の決着をどうつけるかが大切なのではないでしょうか。
我が身に起こることはすべて「そういうシナリオなのだ」と引き受けている。
起きることはすべて弥陀の本願にお任せしてあるシナリオとして受け入れる。
キリスト教の神とのやりとりは実際には自問自答のようなカタチなのでしょう。科学的には、神にアクセスしているつもりで、心の中の無意識の領域にアクセスしているように見えます。巨大な無意識の部分に、太古の知恵や先祖の知恵が蓄積されている。だから、意識で考え過ぎずに、無意識に聞けば、答えは必ず見つかる。
矛盾した状態を、無理にではなくそのまま、納得して飲み込む。