犬はあなたをこう見ている

◾犬の行動を理解するときに必ず目安とされるオオカミの群れは、人間が介入してメチャクチャにしない限り、仲むつまじい家族の集まり。
◾犬の新しい科学では、犬は人間が思っているより頭の回転がよいところも、逆に回転の悪いところもあることがわかった。たとえば、犬は人間のボディランゲージをとてもきめこまやかく読みとれるので、人間がしようとしていることを不思議なほど正確に予測できる能力をもっている。その反面、今という瞬間にしばられ、過去や未来に思いをはせることができないから、自分の行動をさかのぼって考えたり、行動の成り行きを考えたりはできない。
◾現在では、オオカミの群れ(パックと呼ばれる)の大半はただの家族の集まりだとわかっている。
◾群れの本質は支配ではなく協力のようだ。
◾雄と雌一匹ずつの暴君が率いる階層社会ではなく、何事もなければ若者が進んで両親を助け、弟や妹の子育てを手伝うという、円満な家族。
◾オオカミの親和行動。体勢を低くしてしっぽを下げながら近づく。耳を少しうしろに傾け、しっぽの先を勢いよく振り続ける。愛情のこもったつながりを強めるメカニズム。
◾とらわれの身のオオカミの群れを観察したことで、オオカミの行動を誤って判断したばかりか、オオカミの家族構造そのものについてまで根本的な誤解が起きてしまった。そしてその誤解のせいで、犬に対する人々の見方までゆがめられてしまった。
◾だから「アルファ」という言葉は、通常の群れ(野生)の親オオカミにあてはまる限り、親の役割以上の地位を表しているわけではない。この言葉が意味をもつのは、人間に飼われているために家族の結びつきを失ったオオカミ集団に特有の、闘いに勝ち残った者を表すときだけだ。ペットの犬について、また犬と飼い主との結びつきを理解するのに適しているのは、このふたつのモデルのどちらだろうか?自然から切り離された動物園の群れに基づいた「アルファ」モデルか、いっしょに暮らせる仲間を自由に選べる野生のオオカミの行動に基づいた「家族」モデルか?
◾この本では、犬の本来の性質を示す生物学的特徴を、幅広く探していくことにする。
◾家族で暮らし(若者世代は、両親の次の年の子育てを手伝うことが多く)、鋭い鼻をもち、知能が高くて適応力があり、狩猟をするかゴミをあさる、またはその両方の習性がある。
◾犬はイヌ科の動物であり、たまたま今生きている一番近い親戚がオオカミだと考えることにしよう。
◾犬にはアジアとヨーロッパの色々なオオカミの血が混じり合っている。ただしそこには、アメリカのシンリンオオカミの血だけは含まれていない。だから、今も生息しているオオカミのなかに、犬と犬の行動を理解するための完璧なモデルとなるようなものはいないのだ。そのうえ飼いならしには長い長い年月がかかっているので、一万世代以上も前にオオカミから枝分かれしたあと、犬には根本的に変化するチャンスがあった。
◾ただし、オオカミは厳密な肉食ではないことを思いだそう。ときどき骨や肉のかけらを口にできれば、植物性の食べ物で問題なく生きていける。
◾現代の犬は、ぼくの仮説が正しいとすれば、初期に生息していたオオカミのほんの一部の子孫。それらの祖先は突然変異によって、人間とオオカミの両方と同時に仲良くできるようになったことで、当時のオオカミの大半から枝分かれした。その少数派は人間といっしょに暮らし続けて、やがて犬になったが、残るほとんどのオオカミはこの道に従うことはできなかった。
人間と仲良くできる犬の能力が、人に飼い慣らされた結果ではなく偶然の産物だったとしても、そもそも飼いならしの道を開いた、何より重要な前適応だったのではないだろうか。
◾犬とオオカミの決定的な違いは、見た目ではなくその行動にあり、特に人に対してどう接するかが大切だ。
◾人に慣れたキツネは、犬とは違い、他のキツネと仲良くすることに興味を失ってしまうように見える。
◾農場のキツネの研究から、人に慣れるオオカミと人に慣れないオオカミの差は、幼いころの社会的学習期間が延長されるかどうか、その結果、人間との触れ合いを許容する能力を発達させる時間があるかないかできまることがわかったので、この過程の解明に大きく役立っている。
◾保護施設の研究では、犬が自由裁量を与えられたとき、オオカミの群れのようなものを作る傾向があるという証拠は見つからなかった。
◾それなのに、ペットの犬を理解するための基準として大切なのはオオカミだとほのめかす犬の専門家やドックトレーナーは多い。そのとき実際に基準と見なしているのは、何よりも家族のきずなを大切にする野生のオオカミではなく、無理やり同じ場所に押し込められて血のつながりのない相手と争いを繰り返している、動物園のオオカミなのだ。
◾また犬のしつけに関しても、「支配」という言葉を不正確に、あるいは誤解を招くように使っている例は山ほどある(シーザー·ミラン)。
生物学者ならその行動を社会的なものとはみなさず、すぐ補食の習性に分類するだろう(レーザーポインターの光を追いかける犬について)。
◾「犬が別の犬と出会ったとき、その先の行動を決めるには、相手にどれだけやる気が見えるかを、実際の体格や強そうに見えるかどうかより大事にする」。
◾犬が資源を競い合うときに体の大きさを無視するのは、飼いならしの結果だろう。
◾犬の他犬へのふるまいの決定方法。犬が「経験則」を更新するごとに、その効果は以前の更新より少しずつ弱くなっていく。言いかえると、最初の何回かの出会いが、「規則」を作るうえでとても重要になる。
◾仔犬は似たような犬すべてに恐怖を結びつけてしまう。考えを変えさせるようなことが起こらなければ、その感情はいつまでも続く。だから飼い主が仔犬をほかの犬の前にはじめて出すときには、細心の注意が必要になる。
体罰は一見有効だが、長い目で見ると効き目がなく、その理由は、動物の学習方法を研究する科学者の目には、火を見るより明らかだ。
◾イアン·ダンバー博士は、できれば褒める「ポジティブトレーニング」「ルアー·ごほうび」トレーニングを提唱。犬の心理学に基づき、動物行動学の博士号と10年にわたる犬のコミュニケーションおよび行動研究により裏付けられている。
◾最も単純な学習は「慣れ」。どうでもいいとわかったことには反応しなくなること。ストレス要因を犬がわかるくらいの強さで、しかも恐怖を感じさせない程度に与える。このレベルに慣れたら、音をほんの少しずつ、長い間隔で大きくしていくことができ、その音にも慣れると、日常の「ふつう」音の大きさにも驚かなくなる。
刺激を段階的に強くするときには、犬がわずかでも驚かないようにすることが肝心だ。その限界を超えると、何段階も前に戻ってやりなおさなければならない。
◾その反対の「鋭敏化」は、怖いものから逃げられないために犬がパニックに陥ることで起こる。
◾古典的条件づけは無意識のもので、何が起こったかを犬がじっくり考えるわけではない。そのため、任意の刺激と、犬が反応するよう条件づけられていることが起こる間隔が、短いときだけーー一秒か二秒ーーうまく働く。
◾犬の学習=一秒か二秒だけ間隔を置いた出来事の関連づけ。
◾「オペラント条件づけ(道具的条件づけ)」連想学習のもうひとつの種類。犬の行動を特定の褒美と結びつける。褒美は食べ物だけでなく、触れ合い、探検や狩猟に出かけるチャンス、遊びが褒美と考える犬もいる。
クリッカー=「二次強化子」の役割。最初は任意の出来事だったものが、その直後に必ず本物の褒美を与えることによって、動物の心のなかでエサと関連づけられると同時に(単純な古典的条件付け)、なぜかそれ自体が褒美になってくる。

◾そして実際になつくのは、まだ仔犬のころ、やさしい人間に出会ったときに限られる。
◾犬が人間への親しみをもてるようになるには、生後3~10、11週間の「臨界期」に、なんらかの(適度な量の)触れ合いが必要。
◾仔犬の場合は感受期(生後3週間半)に仲良くできたほかの動物、たとえば猫でも、刷り込みが生じる。
◾最初の3、4か月が最も大切な時期。刺激が多すぎるのは、少なすぎるのと同じくらい有害。殆どの犬はごく普通の人間の家庭で育つだけで、ほどよい程度の経験をしている。
◾生後12週頃、それまで一度も見たことのない動物や人間のタイプを避けるようになり、拒絶することもある。
◾仔犬を生後8週間より前に兄弟から引き離すと他犬を怖がるようになる兆候もあるので、生後8週間までは兄弟を皆一緒にしておき、それと同時進行で、様々に異なった人間と会わせはじめるのが理想。
◾母親の胎内に宿ってから生後およそ4ヶ月までの仔犬の経験が、その性格に決定的な影響を与える。

◾はっきりしているのは、犬の感情生活を理解しようと最大限の努力をする大切さだ。
◾犬は「罪悪感」を抱かない
犬のとった行動は、自分が現実にしたことやしなかったことではなく、飼い主の行動に応じて決まっていたのだ。
◾犬は二原色ー青紫と黄緑ーしか見えていない。黄色の錐体細胞がないため、赤とオレンジ、オレンジと黄色を区別できない。赤と青は区別できる。
◾可聴閾の最高値。人間23キロヘルツ、犬45キロヘルツ、猫100キロヘルツ。
◾断尾されると仲間とのやりとりに不利を背負い込むことは明らかだ。
◾犬の性格は、遺伝子と成長期の経験との複雑なからみ合いによって作られていく。

◾新しい犬の科学が強い抵抗を受けてきた分野のひとつに「しつけ」がある。一部のドッグトレーナーや自称「問題行動専門家」は、科学に基づいた信頼できる情報を伝えようとする人々を、経験や実績がないとあからさまに中傷することさえあった。ほとんどの犬は家族の支配権を虎視眈々とねらっているという古い考えが、今も根強く残り、なかなか消えない。体罰も同じだ。
◾だが今のところ、さまざまなトレーナーの派閥が異なる主張や反論を繰り広げ、飼い主は戸惑うばかりになっている。
◾あいにく、広く認められたドッグトレーナーの基準というようなものはない。
◾ドッグトレーニングは今、規制のない職業だ。その営業を管轄する法律がない······トレーニングと称して、正式な教育も証明書もない人たちが、飼い主の犬を抑圧し、文字通り死に至らしめることがあっても、無罪放免だ。

犬から見た世界

◾科学者は自然界でのオオカミの行動についてわずかしか知らないし、現在知られている事柄も、オオカミ=犬のたとえが根拠にしている従来の知識とは、しばしば矛盾しているのだ。
◾それに加えて、トレーニングの方法自体、科学的にテストされたものではない(テスト済みだと主張するトレーナーもいるが)。科学的テストとは、訓練を受けた実験グループと、訓練をうけないだけであとは同じ生活を送っている対象グループの行動を比較して、プログラムの有効性を評価するものだが、そのようなテストを経た訓練プログラムは皆無である。トレーナーのもとに来る人々には、しばしば共通して二つの特徴が見られる。ひとつは、彼らの犬が「犬の平均」よりも「従順でない」ことであり、もうひとつはその飼い主が「飼い主の平均」よりも、それを変えたいという意欲が強いことだ。この二つの条件の組み合わせと、数ヶ月という訓練期間を考えれば、訓練のあとでその犬の行動がまったく変わるというのはきわめて考えられるーーどんな訓練だったかには関係なく。
◾決定的なのは、訓練がふつう飼い主に合わせて行われることだ。飼い主が犬の役割をどう見ているか、犬に何をさせたいのかに応じて、その犬を変えるのである。その目標は、本書の目的とはまったく違う。わたしたちの目的は、犬が現に何をするのか、犬が飼い主に何を望み、飼い主の何を理解するのかをみることなのだ。
◾本質的に人間の経験という偏見に染まっているわたしたちは、動物の経験については、自分の経験と相応する程度までしか理解できない。動物について自分たちが思っていることと矛盾しない話を記憶し、そうでない話は都合よく忘れる。ちゃんとした証拠のない「事実」を平気で語る。
◾この種の誤りをただすには、わたしたちの擬人化本能を「行動を読む本能」に置き換えればよい。ほとんどの場合これは簡単である。まずは犬に、何を望むか聞いてみる。あとは彼の答えをいかに翻訳するかを知るだけでよい。
◾犬の「見方」の想像。動物の生活を理解したいならば、彼(20世紀初頭のドイツの生物学者ヤーコプ·フォン·ユクスキュル)がウムヴェルトと呼ぶものーー動物の主観、もしくは「自己世界」〔環世界もしくは環境世界と訳されている〕ーーを理解するところから始めなくてはならない。
◾二つの構成要素ーー知覚と作用ーーは、すべての生きものにとっての世界をほぼ定義し、境界を定める(ウムヴェルト=環世界)。彼らだけの主観的現実、その動物が永久にとらえられている「石鹸の泡」。人間も同じ。
◾犬の味覚受容体(レセプター)
辛い、甘い、苦い、酸っぱい、ウマミ(あの土くさい、キノコと海草のエキスで、風味を高めるグルタミン酸ソーダにとじこめられているもの)。
彼らの甘さの知覚は私達のそれとは少し違って処理される(塩分による甘味の増強に関して)。甘さの受容体はとくに豊富。スクロース(蔗糖)やフクルトース(果糖)はグルコース(ブドウ糖)などよりも多くの受容体を活性化。この事は犬のような雑食性動物には有利だった。植物や果物が熟しているかどうか区別できるからである。
◾家畜化のプロセスはおそらく、初期のイヌ科動物が人間の集団のまわりで食べ物ーー残飯ーーをあさることから始まったのだろう。それゆえ犬が根っこの部分でオオカミだという理論から、彼らに生肉しか与えないというのはじつに馬鹿げている。犬は雑食性であり、何千年ものあいだ人間が食べるものを食べてきたのである。ごくわずかな例外はべつとして、人間の皿にあって美味しいものは、犬の餌入れにあっても美味しいのである。
◾犬は人間の幼児と同じく、いわゆる「愛着」を示し、ほかの者よりも世話をしてくれる者を好む。彼らは世話をしてくれる者から離れることに不安を感じ、戻ってきた相手に特別な挨拶をする。
◾犬とオオカミの違いの一つ、アイコンタクト。犬は情報を求めてわたしたちに目を向ける。オオカミはアイコンタクトを避ける。
◾罰を与えるかわりに、彼ら自身にどの行動が報酬を受け、どの行動が無駄に終わるか気づかせるならば、学習は最高にうまくいくだろう。
◾犬にみずからの観察能力を使わせるのである。望ましくない行動をしたら、飼い主の関心も、食べものも、何ももらえない。あなたからほしいものは、何も手に入らないのだ。ちゃんと行動すれば、それが全部手に入る。このプロセスは、子どもが大人になるプロセスにおいて不可欠の部分である。
◾彼らの脳は、意図するより前に行動するよう配線されている。彼らには自分自身と自分の家族、そして自分の領域を防衛しようとする、必ずしも予測できない衝動がある。

◾人間が世界を見るように、犬は世界を嗅ぐ。犬の宇宙は、複雑な匂いの層からできている。匂いの世界は、少なくとも視覚の世界と同じくらい豊かなのだ。
◾さらに最近の研究によると、犬に抗生物質を与えすぎると体臭が変化し、ふだん放出している社会的情報が一時的に混乱してしまうらしい。もちろん医薬品を適切に使うことは必要だが、その際は体臭の変化とその影響について気を配るべきである。

◾犬は、オオカミと同じように、目、耳、尻尾、そして姿勢そのものでコミュニケーションを行う。
◾犬もまた非言語による無数の相互伝達手段を発達させてきた。
◾動物にあるのは、情報を送り手(話し手)から受け手(聞き手)に伝えるひとまとまりの行動システムである。
◾動物たちはしばしばボディランゲージ(四肢、頭、目、尻尾、もしくは体全体)を使い、あるいは色を変えるとか、排泄、あるいは自分を大きく、もしくは小さくするといったコミュニケーション手段を使う。
◾人間とくらべて発声のレパートリーが乏しい動物にとっては、姿勢はさらに重要である。そして犬は、特異な姿勢を使ってきわめて特異な意味を伝達しているようなのである。
◾体を使う言語がある。臀部、頭、耳、足、そして尻尾という音素で形成される言語だ。犬は、この言語を直感的に翻訳する方法を知っている。
◾人間は犬から見ると、途方もなくぎこちない生きものに見えるに違いない。彼らのほうは体の体勢とその高さを変えることで、遊びの体勢から攻撃、そして求愛の意図まで、あらゆることを表現できるのだ。
◾驚くべきことに、犬は、相手の犬の高さよりもその姿勢のほうを気にかける。体の高さをそのまま自信とか支配性につなげることはないのだ。
◾犬は尻尾を左右非対称に振る。飼い主や興味ある対象(人や猫)を見たときなど、平均では尻尾の向きは右側に強くなる傾向。知らない犬に出会ったときなどは左に振る傾向。
◾犬は体を使って表現する。コミュニケーションが動きに書き込まれているのだ。
◾彼らは口がきけないのではない。言語の音(ノイズ)がないだけなのだ。

◾犬は視野が広く、周辺にあるものがよく見えるが、真ん前にあるものはそれほどよく見えない。
◾犬はわたしたちの目を検知するのはあまり巧みではない。わたしたちの顔全体の表情のほうをよくとらえる。指差しや方向転換によく従うのもそのため。犬の視覚は他の感覚の補足手段。耳で音をおおまかにつきとめ、目を向け、鼻使って詳細に調べる。
◾犬は自分たちが見るのを予期しているものではなく、実際に見るもの、直接見る細部に、はるかに関心をもつ。
◾注意を払う=いま見たもの、聞いたものが何かを考える。
わたしたちが他者の「注意」を気にとめるのは、それによってその人間がつぎに何をするか見るか知るかが予測できるから。自閉症者は、相手の目を見ることができないか、見ようとする気持ちが欠けており、結果、他者の注意ーーそれをどのように操作するか、その背後の「心の事実」ーーを理解することができない。
◾犬のアイコンタクト(人やオオカミやその他動物では「攻撃的」要素)
この行動は「人間を見ること」がもつサバイバル上の価値ゆえに強化されたと考えられる。幼児同様、おとなの顔は多くの情報ーーとりわけ食事ーーをもっている。恐怖に打ち勝つ価値がある。犬が人間を見つめ、人間がそれによく反応するとき、それは幸福な状況である。こうして犬と人間の絆は強まっていくのだ。
◾むしろ「フェイスコンタクト」?犬は幼児と同様、顔を見るとき、特別な傾向を示すーー最初に左(顔の右側)をみるのだ。ただし人間の顔を見るときだけ。他犬に対してはこの視野バイアスを全く示さない。犬は、「人間が人間を見るように」人間を見ることを学習したのである。
◾指し示し
腕、肘、足だけでなく、人間の頭の方向ーーその視線ーーから得た情報も利用できる。
◾犬は、人がどの程度注意しているかな正確に気づき、それに応じて行動を変えたのである。
犬は飼い主の注意のレベルを系統的にとらえ、どういう状況ならば飼い主に言われたことを破っても大丈夫かを決めた。
◾霊長類とくらべて犬ははるかに人間に似ていない。だがわたしたちの視線の背後にあるものに気づき、それを使って情報を手に入れ、あるいは自分たちの利益になるように使うということになると、はるかにすぐれたスキルを発揮する。

◾犬の成績が悪いのは、彼らが人間をあてにする傾向によって説明できるのだ。
◾犬の認知能力。犬は問題解決に人間を使うことにおいて、素晴らしく巧みであるが、人間がそばにいないときに問題を解決するのは不得手である。
◾犬を訓練するときにはこの先ずっとくりかえしてほしい行動にだけ報酬を与えなくてはならない。
◾だがふつう、子どもは最終的に心の理論を発達させる。どうやらその発達は、いままで述べてきたプロセスーー他者に注意を払い、そのあと他者の注意に気づくーーを通じて行われるようである。自閉症の子どもの多くは心の理論を持っていないようだ。殆どの人々にとっては、視線と注意の役割に気づくことと、そこに心があるのに気づくこととの間には、ひとつの大きな理論のステップがあるに過ぎない。
◾アテンションゲッター=相手の注意をひく為の行為
軽➡️「インユアフェイス」相手の目の前に立つ。「おおげさな後退」相手の犬を見ながら後ろにはねる。
強引➡️「噛む」「体をぶつける」「吠える」
成功後、遊びの信号を送る。
◾遊びの信号
典型的な信号はプレイバウ(遊びのお辞儀)。犬は遊びたい相手の前で卑屈な態度をとる。前足を折ってかがみ、口をだらしなく開き、尻を上げ、尻尾を高く振り、相手を遊びに誘おうと最大限の努力を払う。
馴れたもの同士では、プレイスラップ(遊びたたき、お辞儀の最初に前足で地面をたたく)、オープンマウス·ディスプレイ(口は開けているが歯はむき出さない)、ヘッドバウ(頭のお辞儀、口を開けて頭をぴょこんと上げ下げする)などですまされることになる。息の速いハンティングでさえ、遊びの信号になりうる。
◾犬によってはアテンションゲッティングなど気にもとめず、吠えるだけの者もいる。反応がなくても、ひたすら吠えて吠えて吠えまくる。またある犬たちは、すでに相手の注意がこちらに向いているのに、アテンションゲッターを使ったり、遊びがすでに始まっているのに遊び信号を使ったりする。統計からみると、ほとんどの犬は気を配った行動を見せるが、例外も多い。
◾注意の利用と遊び信号を駆使する彼らのスキルは、犬が初歩的な心の理論を持っていることをほのめかす。
◾犬の遊びを観察していると、アテンションゲッティングと遊び信号の暗黙の規則を破っている犬たちは、遊び仲間として避けられていることがわかる。言ってみれは適切な、気配りの利いた手続きを踏まずに、ひたすら乱暴に他者の遊びに割りこんでくる犬たちは仲間はずれにされるのだ。
◾ごめんねというプレイスラップ(前足で地面をたたく。お辞儀のより軽いバージョン)。

◾ある理論は、犬の夢もまた、人間の場合と同じように、レム睡眠(身体の回復の時間)の偶発的な結果だとしている。あるいはまた夢とは、想像という安全空間のなかで、未来の社会的相互作用と肉体的スキルを練習するための時間として、あるいは過去の相互作用と技を省みるための時間として、機能するのかもしれない。
◾彼らのヒゲは、空気中のいかなる匂いの方向も示すようにうまく配置されているのだ。
◾学習とは時を経ての連想もしくは出来事の記憶なのである。
◾犬がはっきり知っているのは、飼い主が不快な表情をして出現したら、罰が近いということなのだ。犬は自分が罪があるとは知らない。

◾犬であるとはどういうことか
匂いに満ち、人間たちが大きな場所を占めている。地面に近く、舐められ、口にくわえられるかくわえられないか。
◾地面に近い世界というのは、匂いの強い世界である。匂いは地面にとどまり、沈滞するからだ。一方、空中では四方に発散してしまう。
◾音もまた地上近くでは伝わり方が異なる。地中の生き物は地面を使って物理的に伝達することが多い。床の振動は近くにいる犬を動揺させるかもしれず、大きな音は床で弾んでもっと大きくなり、休んでいる犬の耳に入ってくる。
◾舐める。
◾犬にとって、もののアイデンティティの本質的な部分は、彼らの網膜がすみやかに検知する「動き」である。すばやいリスとのろまなリスは違うリスかもしれない。スケートボードをやっている子どもと、抱えている子どもは、違う子どもだ。かつて、動く獲物を追うようにデザインされた動物らしく、犬にとって動いているものは、静止しているものよりも興味深い(動かないリスでも、走るリスになることを学習すれば、静止した相手でも追いかけるだろう)。
➡️動くもの、動かないものを別のものと認識。
◾犬の対象の定義➡️動き、匂い、口に入れられるか。
◾犬は細部に関心を寄せるが、それは細部から一般化する能力を邪魔するのかもしれない。犬は木をクンクン嗅ぐが、森を見ない。車で犬を落ち着かせたいとき、お気に入りのクッションが役立つ。怖いものや人物でも、新しい状況に置かれると、怖くないものとして生まれ変わることがときどきある。
この限定性こそ、犬が直接目の前にないものごとについて抽象的に考えないことを示すものかもしれない。
◾匂いは時間を物語る。過去は、弱まった、あるいは劣化した、あるいは覆われた匂いで示される。時間がたてば、匂いは強さが弱まるため、匂いの強さは新しさを、匂いの弱さは年輪を示唆する。
◾こう考えると、犬によく見られるある種の行動の説明がつく。ひとつは犬がたえず匂いを嗅いでいることであり、もうひとつは、犬の注意がいかにも散漫に見えることだ。彼らはつねに注意をあちこちに分散させて、忙しく嗅ぎまわっている。犬にとって、対象が存在するのは、匂いが発せられ、その匂いを吸い込むあいだだけなのだ。
◾犬の鼻は、わたしたちの視覚と皮膚感覚のかわりを務める。春の空気を鼻いっぱいに嗅げば、冬の空気とは著しく違った匂いが入ってくる。
◾彼らの感度は超自然的であるーーわたしたちよりほんの少し速いのだ。彼らの行動が始まったとき、人間は見ていない。
犬と人間では「瞬間」が異なり、犬が「いましていること」についての感覚も異なる。クリッカーレーニングは、この不一致に対処している。
◾生後2週間から4ヶ月まで、子犬は他者(どんな種でも)から学習するための窓が特に大きくなっている。どんな犬も、離乳しないうちに母親から引き離されるべきではないが(6~10週間)、それと同時に、犬にはきょうだい犬や人間との接触が必要なのである。
◾動物行動学において、これは「相互模倣的行動」と呼ばれており、動物のあいだでの良き社会的関係の発達と維持にかかわっている。
接触、挨拶、タイミング。
◾犬と人間の絆を強めるのは、接触であり、同調性(シンクロニー)であり、さらに再会のときの挨拶の儀式である。
◾この結びつきはきわめて根深く、反射のレベルにおいて本能的。犬は人間のあくびに感染する。
◾あなたの犬は社会的動物なのだ。その生活の大部分をひとりで過ごさせないことである。
◾凝視と一緒に、舌をすばやく空中に出して舐めるのは、攻撃的というよりもっといとしげな行動である。
◾つまりわたしたちが犬に苛だつ理由の多くは、犬のもつ動物らしさを無視した極度の擬人化から生ずる。
◾擬人化に代わる姿勢は、たんに動物を「人間でないもの」として扱うことではない。今のわたしたちには、彼らの行動についてより正確に見るためのツールがある。彼らの環世界、そして知覚と認知能力を心に留めるのだ。動物に対して感情に動かされないスタンスをとる必要もない。科学者もまた擬人化を行っている······自分の家で。
◾犬に名前をつけることは、彼を個人的なものーーつまり擬人化できる存在ーーにするプロセスの始まりであり、その犬の本性を理解しようとする関心のあらわれであり、犬が育ち上がっていく個性への出発点だ。名前をつけないというのは無関心の極致のように思われる。
◾わたし自信、犬にどんな名前がいいか、いろいろ考え、いくつもの名前を呼んでは、どの名前にいちばんすみやかに反応するか見ようとしたものだーー「ビーン!」「ベラ!」「ブルー!」。そんなときわたしは、自分が「彼女の名前」ーーすでに彼女のものである名前ーーを探していると感じた。そしてその名前とともに、人間と動物のあいだの絆がーー投影ではなく理解によって織りなされた絆がーー形成されはじめるのである。
◾それでは、あなたの犬のところにいき、観察してみよう。彼の環世界を想像しーーそして彼にあなた自身の環世界を変えさせるのだ。

◾「わたしたちと犬は、群れというよりも仲良し集団(ギャング)に近い。楽しく、無為に、ギャングの維持のほか何も求めずに自己満足しているだけのギャングだ」

利己的な遺伝子

◾進化において重要なのは、種(ないし集団)の利益ではなくて、個体(ないし遺伝子)の利益。
◾この本の主張するところは、われわれおよびその他のあらゆる動物が遺伝子によって創りだされた機械にほかならないというものである。
◾私がこれから述べるのは、成功した遺伝子に期待される特質のうちでもっとも重要なのは非情な利己主義である、ということである。
しかし、いずれ述べるように、遺伝子が個体レベルにおけるある「限られた(limited)」形の利他主義を助長することによって、もっともよく自分自身の利己的な目標を達成できるような「特別な(special)」状況も存在するのである。
◾われわれの遺伝子は、われわれに利己的であるよう指図するが、われわれは必ずしも一生涯遺伝子に従うよう強制されているわけではない。確かに、利他主義を学ぶことは、遺伝的に利他主義であるようプログラムされている場合よりはずっとむずかしいであろう。あらゆる動物の中でただ一つ、人間は文化によって、すなわち学習され、伝承された影響によって、支配されている。
◾利他的にみえる行為とは、表面上、あたかも利他主義者の死ぬ可能性を(たとえどれほどわずかであれ)高め、同時に、受益者の生きのびる可能性を高めると思わせる行為である。よく調べてみると、利他的にみえる行為はじつは姿を変えた利己主義であることが多い。
◾われわれは自分が進化の産物であるがために、進化を漠然と「よいもの」であると考えがちだが、実際に進化したいと「望む」ものはないというのが、その答えである。進化とは、自己複製子(そして今日では遺伝子)がその防止にあらゆる努力を傾けているにもかかわらず、いやおうなしにおこってしまうという類いのものなのである。
◾原始のスープ。三種類の安定性へ向かう進化傾向。寿命(長時間存続するか)、多産性(複製が速いか)、複製の正確さ、においてすぐれた分子の含有率がより高くなっているだろう。
◾彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生みだした。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。いまや彼らは遺伝子という名で呼ばれており、われわれは彼らの生存機械なのである。
◾体は遺伝子を不変のまま維持するために遺伝子が利用する手段。
◾昔、自然淘汰は、原始のスープの中を自由に漂っていた自己複製子の生き残り方の差によって成りたっていた。今では、自然淘汰は生存機械をつくることのうまい自己複製子に、つまり、胚発生を制御する術にたけた遺伝子に有利にはたらく。
◾G·C·ウィリアムズの定義。遺伝子は、自然淘汰の単位として役立つだけの長い世代にわたって続きうる染色体物質の一部と定義される。遺伝子は複製忠実度のすぐれた自己複製子であるといえる。
◾厳密にいうなら、この本には、利己的なシストロンでも利己的な染色体でもなく、いくぶん利己的な染色体の大きな小片とさらに利己的な小さな小片という題名をつけるべきであったろう。
◾この議論の基礎となるのは、前にも述べたように、遺伝子が潜在的に不死身であるのに対して体その他といったもっと上の単位はすべて一過的なものである、という仮定であった。
◾進化は、遺伝子プール内である遺伝子が数をまし、ある遺伝子が数を減らす過程である。
◾「この形質は遺伝子プール内で遺伝子の頻度にどんな影響を与えるのか?」
◾負のフィードバック。「目的機械」つまり、意識的目的をもっているかのようにふるまう機械ないしものは、ものごとの現在の状態と「望みの」状態とのくいちがいを測る一種の測定装置をそなえている。それは、このくいちがいが大きいほど、機械がけんめいにはたらくように造られている。こうして、機械は自動的にくいちがいを減らそうとする。そして「望みの」状態に達すると、機械は止まる。
◾どちらをとるにせよ、危険はあるが、自分の遺伝子が生き残る機会を長い目でみて最大にするような決定を下さねばならない。
◾進化とは、たえまない上昇ではなくて、むしろ安定した水準から安定した水準への不連続な前進のくりかえしであるらしい。
◾遺伝子は他の体に宿る自分自身のコピーをも援助できるらしい。
◾何もしないことが正味の利益の得点を最高にする「行動」であるならば、モデル動物は何もしないであろう。
◾一方、生存機械というものは、一般に遺伝子という利己的な存在によって支配されており、しかもこの遺伝子という存在は、将来を先取りしたり、種全体の幸福を心配するようなものとはおよそ考えられないというのが本書の基本前提である。
◾一見貞節な一夫一婦制を示す種の場合ですら、雌は雄と個体的に結びつくというより、むしろ雄の所有するなわばりと結婚するのかもしれないのである。
◾個体群があまり大きくなると、なわばりをもてない個体ができ、彼らは繁殖できないことになろう。
◾雌性とは搾取される性であり、卵子のほうが精子より大きいという事実が、この搾取をうみだした基本的な進化的根拠なのである。
◾雌がその配偶者から加えられる搾取の程度を減らすための切り札=交尾拒否。しかし交尾後切り札は切られるため、戦略として、家庭第一の雄を選ぶ、たくましい雄を選ぶ。
◾長い婚約期間を強要することによって、雌はきまぐれな求婚者を除外し、誠実さと忍耐という性格を事前に示すことのできた雄とだけ、最終的に交尾すればよいのである。
◾雌は、交尾に応ずる前に雄が子どもに対して多量の投資をするように仕向け、そのため交尾後の雄はもはや妻子を棄ててもなんの利益も得られないようにしてしまうことができるのではないだろうか。

ミームーー新登場の自己複製子
人間の特異性「文化」。文化的伝達は遺伝的伝達と類似している。言語は非遺伝的手段で「進化」。鳥の囀ずりにもみられる。
人間の文化というスープ。模倣の単位。旋律、観念、キャッチフレーズ、ファッションなど、いずれもミームの例。
遺伝子が遺伝子プール内で繁殖するにさいして、精子卵子を担体として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームミームプール内で繁殖するさいには、広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩くのである。
評価を得た考えが、脳から脳へと広がって自己複製するといえるわけである。
N·K·ハンフリー「······ミームは、比喩としてではなく、厳密な意味で生きた構造とみなされるべきである。君がぼくの頭に繁殖力のあるミームを植えつけるということは、文字通り君がぼくの脳に寄生するということなのだ。ウイルスが寄生細胞の遺伝機構に寄生するのと似た方法で、ぼくの脳はそのミームの繁殖用の担体にされてしまうのだ。これは単なる比喩ではない。たとえば「死後の生命への信仰」というミームは、世界中の人々の神経系の一つの構造として、莫大な回数にわたって、肉体的に体現されているではないか」。
「神」の観念。ミーム·プールの中において神のミームが示す生存価は、それがもつ強力な心理的魅力にもとづいている。実存をめぐる深遠で心を悩ますもろもろの疑問に、それは表面的にはもっともらしい解答を与えてくれるのである。現世の不公正は来世において正されるとそれは主張する。われわれの不完全さに対しては、「神の御手」が救いを差しのべて下さるという。医師の用いる偽薬(プラセボ)と同様で、こんなものでも空想的な人々には効き目があるのだ。これらは、世代から世代へと、人々の脳がかくも容易に神の観念をコピーしてゆく理由の一部である。人間の文化が作り出す環境中では、たとえ高い生存価、あるいは感染力をもったミームという形でだけにせよ、神は実在するのである。
「観念(アイディア)のミーム」は、脳と脳のあいだで伝達可能な実体として定義されうるはずなのである。つまり、ダーウィン理論のミームとは、この理論を理解しているすべての脳が共有する、その理論の本質的原則のことなのである。
遺伝子が、その生存機械に、ひとたび、速やかな模倣能力をもつ脳を与えてしまうと、ミームたちが必然的に勢いを得る。模倣に遺伝的有利さがあれば確かに手助けにはなるが、そんな有利さの存在を仮定する必要すらないのである。唯一必要なことは、脳に模倣の能力がなければならないということだけである。これさえ満たせば、その能力をフルに利用するミームが進化してゆくだろう。
私たちには、私たちを産み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを強化した利己的ミームにも反抗する力がある(例:避妊)。

◾「やられたらやり返す」は最初の勝負は協力ではじめ、それ以後は単純に前の回に相手が引いた手をまねするだけである。いつでも、何がおこるかは相手のプレイヤーしだい。相手も同じ戦略の場合、両方とも「協力」からはじめ、ずっと「協力」を引きつづけるため、600点という「基準」の100%の得点を得ることになる。
◾妬み屋であるというのは、絶対的に多額の金を胴元からせしめることよりも、相手のプレイヤーよりも多くの金額を得ようと努力することを意味する。妬み屋ではないということは、たとえ相手のプレイヤーがあなたと同じだけの金を得たとしても、それによって二人ともがより多くの金額を胴元から得ることができるかぎりまったく満足するという意味だ。「やられたらやり返す」はけっして実際にゲームに「勝つ」ことはなく、せいぜいうまくいって引き分けだが、しかしそれによってともに高得点を達成する傾向がある。
しかし悲しいかな、心理学者たちが現実の人間のあいだで「反復囚人のジレンマ」ゲームを実施するときには、ほとんどすべてのプレイヤーが妬みの誘惑に屈し、そのため相対的にとぼしい金額しか得ることができない。
ゲーム理論家はゲームを「ゼロサム」と「ノンゼロサム」に分ける。前者は一方のプレイヤーの勝利がもう一方のプレイヤーの敗北となるもの(チェス等)。「囚人のジレンマ」は後者。お金を支払う胴元がおり、したがって二人のプレイヤーは手を組んで、終始ずっと胴元をこけにしつづけることが可能である。
◾事実の問題として、実生活の多くの側面はノンゼロサム·ゲームに対応するものである。自然がしばしば「胴元」の役割を果たし、したがって個々人(あるいは各個体)は、お互いの成功から利益を得ることができる。自分が利益を得るために必ずしもライバルを倒す必要はないのだ。利己的遺伝子の基本法則から逸脱することなく、基本的に利己的な世界においてさえ、協力や相互扶助がいかにして栄えうるのかを、われわれは理解することができる。アクセルロッドの言う意味で、なぜ「気のいい奴が一番になる」かを理解することができるのだ。
しかし、ゲームがくりかえされなけれないかぎり、こういったものは何ひとつとして作動しない。プレイヤーたちは今やっているゲームが最終回ではないということを知って(あるいは少なくとも「わかって」)いなければならない。アクセルロッドの常套句でいえば「未来の影」は長くなければならないのだ。
重要なのは、どちらのプレイヤーもゲームがいつ終わりになるかを知っていてはならないということだ。
◾ゲームの長さの推測値が長ければ長いほど、より気がよく、より寛容で、より妬みを示さなくなる(「反復囚人のジレンマ」のように)。ゲームの未来についての推測値が短ければ短いほど、より意地悪で、より妬み深くなる(一回限りのゲーム「囚人のジレンマ」のように)。
◾アクセルロッドのプログラムは、われわれが本書を通じて、動物、植物、そしてじつは遺伝子について考えてきたやり方にとって、一つのみごとなモデルである。したがって、彼の楽観的な結論(妬み深くなく、寛容で、気のいい戦略の勝利)が、自然界にも適用できるかどうかと問うのは自然なことである。答えはイエスで、当然そうなるのである。唯一の条件は、自然がときどき「囚人のジレンマ」ゲームを設定しなければならないこと、未来の影が長くなければならないこと、そしてそのゲームがノンゼロサム·ゲームでなければならないことである。このような条件は、生物学のいたるところで確実に満たされている。
◾フィッシャーは実際に不平等な性役割の分担をしているつがいが崩壊する傾向をもつことを観察している。

◾遺伝子は自らの「体」の外まで手を伸ばして、ほかの生物体の表現型に影響を及ぼすのである(寄生者と寄主)。
◾自らの遺伝子がその寄生の遺伝子と同じ運命を切望する寄生者は、あらゆる利害を寄主と共有し、最終的には寄生的に作用することをやめるだろう。
◾ウィルソンの『昆虫の社会』の中で私が気に入っているキャラクターは、ヒメアリの一種Monomorium santschiiである。この種は、長い進化の過程で、ワーカーというカーストを完全に失ってしまった。寄主のワーカーが寄生者のためにあらゆることをし、あらゆる仕事のうちでもっとも恐ろしいことさえやるのだ。侵入した女王の命令によって、ワーカーたちは自分たち自身の母親を殺すという所業を実際におこなうのである。王位強奪者は自らの顎を使う必要がない。マインド·コントロールを用いるのだ。どうやってそうするのかは謎である。おそらく女王は化学物質を採用しているのだろう。
それはワーカーのアリの脳を満たし、筋肉の手綱を握り、その深く植えつけられた義務を放棄するよう迫り、ワーカーをワーカー自身の母親に敵対せしめる。
延長された表現型の世界では、動物の行動はいかにしてその遺伝子に利益を与えるかを問うのではなく、それが利益を与えているのはだれの遺伝子なのかを問わなければならない。
◾しかし、もっと穏やかなやり方ではあるが、自然界には同種あるいは別種の他の個体を操作する動物や植物がいっぱいいる。自然淘汰によって操作をする遺伝子が選ばれたすべての場合において、それらの遺伝子を、操作される生物の体に(延長された表現型)効果を及ぼすものとして語るのは理にかなっている。
◾「延長された表現型の中心定理」
動物の行動は、それらの遺伝子がその行動をおこなっている当の動物の体の内部にたまたまあってもなくても、その行動の「ための」遺伝子の生存を最大にする傾向をもつ。
行動だけでなく、色、大きさ、形状、そのほかなんにでも応用できる。
◾自己複製子/ヴィークル(乗り物)、それぞれの役割
自己複製子=自然淘汰の根本的単位、生存に成功あるいは失敗する基本的なもの、時々ランダムな突然変異をともないながら同一のコピーの系列を形成(DNA分子=遺伝子)。ヴィークルの中に寄り集まる。
ヴィークル=われわれ自身のような個体の体。
◾それぞれのタイプの細胞の遺伝子は、繁殖のために特殊化した少数派の細胞、不死の生殖系列の細胞内にある自らの遺伝子のコピーに直接の利益をあたえているのである。

◾にもかかわらず、あらゆるレベルで、ゲーム理論の概念的な構造と社会進化の概念的な構造のあいだに有益な類似性が存在するのである。
◾たとえば私は、ゲーム理論が「進化的に安定な戦略」におおむね対応するような概念にすでに名(「ナッシュ平衡」)を与えていたことを、ごく最近になって知ったのである。
◾彼は、「自己複製子」(繁殖の過程でその厳密な構造が複製される実体)と、「ヴィークル」(死を免れず、複製されないが、その性質は自己複製子によって影響を受ける実体)のあいだの根本的なちがいを認識するように、われわれに強く訴える。われわれがよく知っている主要な自己複製子は、遺伝子および染色体の構成要素である核酸分子(ふつうはDNA分子)である。典型的なヴィークルは、イヌ、ショウジョウバエ、そして人間の体である。

20231124

腎臓が寿命を決める

◾リン=老化加速物質
絶対に欠かすことはできないが、摂りすぎると腎臓の機能低下、血管トラブルや慢性炎症を引き起こすようになり、老化加速の大きな原因となる。
◾「有機リン」体内への吸収率20~60%。
肉類、魚介類、卵、乳製品、野菜、穀物など。
動物由来は吸収されやすく、植物由来は吸収されにくい。
◾「無機リン」体内への吸収率90%以上。
食品添加物、殆んどの加工食品。
食品添加物カットによるリン制限
食品添加物が多そうなものはなるべく食べない戦法をつらぬく。
◾リンが使用されている添加物
リン酸塩(Na)、メタリン酸(Na)、ポリリン酸(Na)、ピロリン酸(Na)
かんすい、酸味量、香料、乳化剤、ph調整剤、強化剤、決着剤

脳を鍛えるには運動しかない!

◾運動で爽快な気分になるのは、心臓から血液がさかんに送り出され、脳がベストの状態になるから。
運動をするのは、脳を育ててよい状態に保つため。
◾強いストレスを受けると脳の何十億というニューロンの結合が蝕まれることや、うつの状態が長引くと脳の一部が萎縮してしまうこと、しかし運動をすれば神経科学物質(神経伝達物質のほか、ニューロンの成長や機能調節などさまざまな役割を担っている化学物質の総称)や成長因子がつぎつぎに放出されてこのプロセスを逆行させ、脳の基本構造を物質的に強くできること、そうしたことをほとんどの人は知らないのだ。実際のとこら脳は筋肉と同じで、使えば育つし、使わなければ萎縮してしまう。脳の神経細胞(ニューロン)は、枝先の「葉」を通じて互いに結びついている。運動をすると、これらの枝が生長し、新しい芽がたくさん出てきて、脳の機能がその根本から強化される。
◾生物の基礎である遺伝子レベルでも、体の活動が心に影響することを示す兆候が見つかっている。
◾ラットを運動させるとアルツハイマー病の予防効果がみとめられた。
◾運動が認知能力と心の健康に強い影響力をもっている。

◾学習とは絶えず変化する環境に適応するために人間が用いる生存手段(ダーウィン)。
◾情報を取り込むことで脳は筋肉のように鍛えられる。使えば使うほど、より強く、よりしなやかになるのだ。
◾運動は脳のなかの神経伝達物質と、そのほかの神経化学物質のバランスを保つ。脳のバランスを保てば人生を変えることができる。
グルタミン酸の信号がさらに送られつづけると、そのニューロン細胞核のなかにある遺伝子のスイッチが入り、シナプスの材料となる物質がもっと作られるようになる。こうして土台が強化され、新しい情報が記憶として定着していく。
シナプス可塑性。学習を繰り返すことでシナプスそのものが大きくなり、結合がより強くなる。
◾BDNF、脳由来神経栄養因子。ニューロンを育てる肥料のような役目。思考と感情と運動を生物学的に結びつける上で欠かせない。
◾運動は脳の至るところでミラクルグロを増やす。海馬に大きな変化。学習のプロセスで重要なはたらきをする分子を運動が刺激することをはっきりと証明し、運動と認知機能が生物学的に結びついていることを突きとめた(コットマン)。
◾老後も健全な精神状態を維持している人の共通点。教育、自己効力感(ある行動や課題を達成できるという信念や自信)、運動。
◾BDNFはニューロンの存続だけでなく、その成長(新しい枝が生える)にも重要で、ゆえに学習にとって重要。自発的な運動をするほど、とくに海馬で増える。
◾運動は学習効率を向上させ、体の健康を保てば学習も仕事も効率よくできる。
◾運動後の方が20%早く単語を覚えられ、学習効率とBDNF値が相関関係にあることが明らかになった。遺伝子変異でBDNFが作れない人は、学習障害である可能性が高い。
◾運動には学習に適した脳内環境を作り出して、人間の精神状態を改善する力がある。
◾「使用がもたらす可塑性」学習という刺激を受けてシナプスは自らを配列し直す(ヘッブ)。
◾「環境富化」。感覚刺激と社会的刺激の多い環境で暮らすと、脳の構造と機能が変わる。逆に環境を悪化させると脳は萎縮。脳は筋肉にたとえられるようになり、脳は使うか失うかだという見方が定着。
◾環境富化によりニューロンに新たな樹状突起が生じ、その新たな枝は学習、運動、社会との接触という環境刺激によって生まれ、結果シナプスは結びつきを増やした。結びつき部分が厚くなることも確認され、信号送信の効率化により、神経回路の情報処理能力に多大な影響が及ぶ。あなたには脳を変える力がある。
◾「使用がもたらす可塑性」生まれたばかりのニューロンは、使わなければ死んでいく。ニューロンは運動によって生まれ、環境から刺激を受けて生き残っていく。
「(海馬に)なんらかの化学物質があり、それが運動を感知して、さあ、新しい細胞をどんどん作ろう、と言っているのだろう」
有酸素運動と複雑な動きはそれぞれ別の有益な効果を脳にもたらす。
お勧めは、心血管系と脳を同時に酷使するスポーツ(テニスなど)、あるいは、10分ほど有酸素運動でウォーミングアップをしたのちにロッククライミングやバランスの訓練といった酸素消費量が少なく技能を必要とする運動をするというやり方。
有酸素運動神経伝達物質を増やし、成長因子を送り込む新しい血管を作り、新しい細胞を生み出す一方で、複雑な動きはネットワークを強く広くして、それらをうまく使えるようにする。動きが複雑であるほど、シナプスの結びつきは複雑になる。また、こうしたネットワークは運動を通して作られたものではあっても、ほかの領域に動員され、思考にも使われる。ピアノを習っている子どもが算数を習得しやすいのはそのためだ。前頭前野は、難しい動きをするために必要な知的能力を、ほかの状況にも応用しているらしい。
◾ダンサー対象の研究によれば、規則的なリズムに合わせた動きよりも、不規則なリズムに合わせた動きの方が脳の可塑性が向上するという。なぜなら、普段とはまったく違う動きをすることで、脳が学習をしていくからだ。
◾歩く以上に複雑な運動技能はすべて、学ばなければ身につかないため、どれも脳を刺激する。

◾運動はニューロン結合に必要なものをすべて供給する。
ヒポクラテスの時代には、感情は心臓からうまれるものであり、精神の病の治療は心臓から始めるべきだ、と考えられていた。現代医学は心と体を切り離したが、ヒポクラテスは正しかったことが近年、具体的に明らかにされている。
◾運動をすると脳がこのモルヒネのような物質で満たされると考えれば、誰もが運動中に経験する気持ちよさの説明がつくではないか。「ランナーズハイ」。運動と気分の結びつき。
◾運動は脳全体の化学反応を調節して、信号を正常に戻すのだ。
◾脳と体の両方に負荷をかける運動は、有酸素運動だけするより、効果が高い。生きるか死ぬかにかかわるスポーツは、闘争·逃走反応が起こり、集中力·認知能力が高まり、新しい動きや戦略を体得しやすくなる。
◾彼らは、大学入試のための勉強というような、長い目で見て価値がある地味な作業よりも、すぐに満足が得られる作業を好む。わたしは彼らを「現在に囚われる人」と呼ぶ。長期目標に焦点を合わせられないので、やる気がないように見えるのだ。
◾注意不足とは、重要でない刺激への関心を抑制できないこと。注意を払うべきでないものにどうしても注意を向けてしまうのだ。
◾運動と注意力の強い結びつき。脳内で同じ回路を共有していて、おそらくそれゆえに、武術のような活動はADHDの子どもに効果があるのだろう。新しい動きを覚えるために、彼らは集中しなければならず、その際、運動システムと注意システムの両方が動員され、鍛えられるのだ。
◾「動くのをやめてしまえば、あなたは動物ではなく、野菜になってしまうのです!」
◾運動とこのような体内で生まれる鎮痛剤(エンドカンナビノイド(アナンダミドと2アラキドノイルグリセロール))との関係は、まったく理にかなっている。それらは、狩りをつづけることで生じる筋肉や関節の痛みをしのぐために進化したのだ。
◾スイマーズハイがないのは何故か。興味深い説があり、肌にはエンドカンナビノイド受容体があり、それはランニングのようにドタドタと体を揺するときだけ活性化するのかもしれないというのだ。
◾アナンダミドの上昇が、かなり激しい運動をしたあとに感じるリラックスと満足感の、少なくとも理由のひとつだとわかった。
◾依存やネガティブな感情が消えたら、その変化が根づくように、心の隙間をプラスの行動で埋めなければならない。最善の選択肢は運動だろう。結局、それこそが本来、人間がするべきことなのだ。つまり体を動かして生きるということだ。
◾筋力をつけるトレーニングと有酸素運動はどちらも、アルコールやタバコやスナック菓子をやめようとしている人が陥りがちなうつの症状を軽減する。
◾研究者たちは、自己規制能力は、筋肉のように衰えもすれば鍛え直すこともできる力だと結論した。それは使えば使うほど強くなる。そして運動は、わたしたちがもつ自己規制能力の最良の形なのだ。

◾概して運動は、ホルモンシステムのバランスを、月単位でも、妊娠や閉経といった人生の節目においても、整えてくれる。
◾妊娠中に運動をすることで、母体と胎児をつなぐ燃料供給ラインが強化され、胎児か必要とする栄養と酸素が確実に届くようになる。妊娠中運動をしなかった母親から生まれた子よりも、神経学的に発達し、IQと言語能力、その数年後も学習能力に著しく差が出た。
◾妊娠中のランニング、活発に体を動かしていると、胎児の脳細胞への栄養供給は向上するらしい。学習能力や記憶力を高め、心の状態全般をよりよくする。妊娠中の運動が、赤ん坊の脳の未来を左右するかもしれないーーこれは衝撃的だ。
◾わたしたちが体を動かしている限り、脳は自らを修復することができるのだ。本来、脳はそのように設計されている。そう考えるたび、わたしは驚きを覚える。
有酸素運動はウエイトトレーニングとまったく異なり、情緒の安定に欠かせないものだ。
◾運動は神経伝達物質のレベルを正常化するので、一般の人より、産後うつになっている母親に対していっそう効果が高いと言える。
◾閉経にも運動。ホルモンの減少による不調を整え、認知機能の低下を抑制する。進化の観点から見れば、ホルモンが加齢の合図を発していても、運動が脳をだまして、生存のためにその機能を維持するように仕向けていると言える。
◾閉経期の血管運動神経症状(ほてりや寝汗)への効果についてはまだ決定的な証拠はないが、運動は心臓病や糖尿病、乳がん、認知機能低下を予防する。
◾運動と更年期障害に強い関連。運動すると、うつの身体的·精神的症状がきわめて少なく、緊張しにくく、疲れにくくなる。
◾かなりの量の運動をしていると答えた65歳以上の女性は、それほど活発でない対象群(男女含む)に比べて認知症になる確率が50%低かった。
◾認知機能の低下を運動によって予防するのにエストロゲンは必須でないことが示された。
◾閉経後の女性101人の知的処理速度と遂行機能(エグゼクティブ·ファンクション)を検査。活発に運動していると答えた人は高得点。

◾年をとるにつれて脳の回路は途切れていくので、なにをするにも、今までより広いネットワークが必要になる。思うに、知恵とは、そのような効率の低下を巧みに埋めることの反映ではないだろうか。
シナプスの衰えるスピードが、新たな結合の生まれるペースを上回るようになると、頭と体の機能にさまざまな問題が生じてくる。➡️アルツハイマー病、パーキンソン病も含まれ、どの病気になるかは、脳のどの部分が衰えるかによって決まる。老化研究は「ニューロンの情報伝達力を回復させ、生かしつづけること」が目的。「成功すれば、ニューロンの衰えを食いとめ、病気を予防できるようになる」。
◾ある研究では、有酸素運動を長年つづけてきた高齢者ほど、脳がよりよい状態に保たれていることがMRIの画像診断によってわかった。
◾ランニングマシンを使った人は、前頭葉と側頭葉の皮質容積が増えていたのだ。
◾孤独を感じていた人は、アルツハイマー病になる確率がそうでない人の二倍近く高かった。
◾運動が高齢者にとくに目覚ましい効果を発揮するのは、それが老化ととに減少するドーパミンの量を回復させるからだ。ドーパミンは報酬と意欲のシステムにおいて信号を伝える神経伝達物質なので、老化の鍵を握っていると言っていい。
アルツハイマー病発病に関係する遺伝子アポリポタンパク質(アポ)E4変異体は、アルツハイマー病患者のおよそ40%がその保有者だが、全人口(アルツハイマー病未発症)の30%もそれを保有している。アポE4変異体をもたなくても発症する人は大勢いる。遺伝子はアルツハイマー病の発症率に影響するが、ライフスタイルや環境も、発症を招いたり抑制したりする原因となる。(高卒後の教育期間が1年増えるごとに17%減少)。
◾少なくとも週2回運動していた人は、認知症になる確率がそうではない人より50%低かった。定期的な運動と認知症との関係は、アポE4遺伝子の保有者においてより顕著。保有者はその変異のせいで脳の神経保護システムがもともと弱いので、ライフスタイルがより重要になるのではないか。「今の時点でわれわれにできることは、どんな遺伝子を保有していようと、そこから最善の結果を引き出せるよう、環境要因を変えていくことだ」。
スウェーデンの75歳以上の老人1173人、糖尿病の患者はいなかったが、血糖値の高い人はアルツハイマーを発症する率が77%高かった。
年をとるとインスリン(細胞内へのグルコースの取り込みを促進している)が少なくなるので、燃料となるグルコースが細胞に入りにくくなる。血液中にグルコースが急増すると、その影響で細胞内にはフリーラジカルのような老廃物が生まれ、また、血管が傷つき、脳卒中アルツハイマー病になる危険性を高める。すべてのバランスが整っているとき、インスリンはアミロイド斑の蓄積を防いでいるのだが、インスリンが減ると斑の蓄積が進み、炎症も促され、周囲のニューロンが傷つけられる。
運動は、インスリン様成長因子(IGF-1)の量を増やす。それにより全身のインスリンが調整され、脳ではシナプスの可塑性が高まる。また運動することで余剰の燃料が消費されると、高血糖のせいで減少していたBDNFが、またさかんに供給されるようになる。
◾がんの最も明らかな危険要因は運動不足。
◾運動すると、免疫系のバランスが回復されて、炎症を抑え、病気を食い止めることができる。
骨粗鬆症予防、骨の強化
女性の骨量ピークは30歳前後で、その後は更年期まで毎年1%ずつ減少、更年期になると減少ペースは倍増する。結果、60歳になるころには、女性の骨は約30%が消失。もっとも、カルシウムとビタミンD(毎朝、太陽光を10分間浴びれば、ただで摂取できる)を摂り、エクササイズや筋力トレーニングで骨を強化していれば、話は違ってくる。ウォーキングだけでは足りないーーそれは、もっと年をとったときのために取っておこう。
若いうちに、ウエイトトレーニングや、走ったり跳んだりという動きが含まれるスポーツをしていれば、骨の自然な減少は予防できる。ある研究では、わずか数ヶ月のウエイトトレーニングで女性の下肢の骨の強さが二倍になった。90代女性でも、骨を強化してこの悲劇的な病気を予防することはできる。
有酸素運動は脳を強くする。

◾健康な生活を営む三つの柱=食事·運動·知的活動
◾細胞の修復メカニズムを活性化➡️クミン、ニンニク、タマネギ、ブロッコリー
フリーラジカルと戦い、最終的に細胞を修復➡️ブルーベリー、ザクロ、ホウレンソウ、ビーツ、緑茶、ワイン
◾全粒粉の穀物、タンパク質、脂肪をバランスよく摂ろう。
◾低炭水化物(ローカーボ)ダイエットは、減量はできても、脳にはよくない。
◾全粒の穀物は複合糖質を含み、単純糖質のように急激に増減しない安定したエネルギー供給をもたらす。
◾脳の50%は脂肪。トランス脂肪、動物性脂肪は有害だが、魚に含まれるオメガ3脂肪酸はとても体にいい。週に一度魚を食べる人は、一年間の認知力の衰えが10%少ない。週3回魚油を含む食品を食べていた人は、認知症になる確率がそうでない人の半分ほど。
◾オメガ3脂肪酸➡️サケ·タラ·マグロのような遠洋魚に含まれる

有酸素運動➡️週4、30~60分、最大心拍数60~65%。加えて、週2、20~30分、最大心拍数70~75%で。走れれば素晴らしいが、まずはウォーキング。つづければ驚きの効果。
◾筋力➡️週2、ダンベルかトレーニングマシン、無理のない重さで1セット(10~15回)×3セット。骨粗鬆症予防。有酸素運動だけでは、筋肉と骨は年とともに衰える。テニス、ダンス、エアロビクス、縄跳び、バスケ、そしてランニングのような、跳んだりはねたりといった動きがある運動も骨の強化に役立つ。
◾バランスと柔軟性➡️週2、30分程度。ヨガ、ピラティス太極拳、空手や柔道、ダンス、バランスボール、ボスというバランスボードなど。身軽でいるために大切。
◾頭の体操ーー学びつづける➡️「鍛えつづけよう」。認知力には予備の部分があるのではないか(スノウドン)。脳は、損傷の埋めあわせをするために、傷ついた部分の仕事をほかの部分に肩代わりさせられるというのだ。

◾運動は脳の機能を最善にする唯一にして最強の手段。何百というこの10年以内に発表された大半の研究論文に基づく。
◾脳のためになにかをする=体を心臓病や糖尿病、がん、その他の病気から守る。体と脳はつながっている。両方一緒に大切に。
◾体と脳をベストの状態に保ちたいなら、この歴史の長い代謝システムをせっせと使うべき。DNAに刻み込まれた古代の活動は、おおまかにウォーキング(低強度、最大心拍数55~65%)、ジョギング(中強度、65~75%)、ランニング(高強度、75~90%)、全力疾走に置き換えることができる。この祖先の日常活動を真似しなさい。毎日、歩くかゆっくり走るかし、週に2、3回は走り、時々は全力疾走で獲物を追うのだ。
◾抗酸化剤を薬の形で服用しても効果はないことーーむしろ有害であるかもしれないーーが示唆されているが、有酸素運動によって細胞内に自家製の抗酸化剤を作り出せることはあまり知られていない。
インターバルトレーニング。ほんの少しのあいだでも全力を出し切ることが、脳に多大な影響を及ぼす。
◾「分子記憶(コットマン)」。つまり、以前、定期的に運動していた人の海馬は、運動を再開すると急速にその活発な状態へ戻ることができるのだ。
もし数日間、あるいは1、2週間、運動しそびれたとしても、再開した翌日には、海馬はBDNFをどんどん生産している。
◾人間もまた走るべく生まれついていて、ものが豊富な時期には、いずれ始まる採集や狩りの日々に備えて、エネルギーを保存するようプログラムされている。座ってすごすことの多い現代の生活は、わたしたちの遺伝子と矛盾している。だからこそ、かつて食料を得るためにやっていた活動の代わりに有酸素運動をするべきなのだ。

◾最大心拍数➡️人の心臓が1分間に鼓動しうる回数の生理的限界。それによって運動の強度を正確に知ることができる。生理学の研究室では、ぎりぎり限界まで運動してその数値を出している。もっと一般的な、娯楽のために運動している人の場合は、220から年齢を引いた数を理論上の最大心拍数と見なす。
ニューロン新生➡️脳内の幹細胞が機能的な新しいニューロンへと分化し、発達する過程。1998年、成人の脳でも確認されたが、それが起きるのは海馬と、脳室下帯と呼ばれる部分だけだと考えられている。脳室下帯は嗅覚に関連する。