利己的な遺伝子

◾進化において重要なのは、種(ないし集団)の利益ではなくて、個体(ないし遺伝子)の利益。
◾この本の主張するところは、われわれおよびその他のあらゆる動物が遺伝子によって創りだされた機械にほかならないというものである。
◾私がこれから述べるのは、成功した遺伝子に期待される特質のうちでもっとも重要なのは非情な利己主義である、ということである。
しかし、いずれ述べるように、遺伝子が個体レベルにおけるある「限られた(limited)」形の利他主義を助長することによって、もっともよく自分自身の利己的な目標を達成できるような「特別な(special)」状況も存在するのである。
◾われわれの遺伝子は、われわれに利己的であるよう指図するが、われわれは必ずしも一生涯遺伝子に従うよう強制されているわけではない。確かに、利他主義を学ぶことは、遺伝的に利他主義であるようプログラムされている場合よりはずっとむずかしいであろう。あらゆる動物の中でただ一つ、人間は文化によって、すなわち学習され、伝承された影響によって、支配されている。
◾利他的にみえる行為とは、表面上、あたかも利他主義者の死ぬ可能性を(たとえどれほどわずかであれ)高め、同時に、受益者の生きのびる可能性を高めると思わせる行為である。よく調べてみると、利他的にみえる行為はじつは姿を変えた利己主義であることが多い。
◾われわれは自分が進化の産物であるがために、進化を漠然と「よいもの」であると考えがちだが、実際に進化したいと「望む」ものはないというのが、その答えである。進化とは、自己複製子(そして今日では遺伝子)がその防止にあらゆる努力を傾けているにもかかわらず、いやおうなしにおこってしまうという類いのものなのである。
◾原始のスープ。三種類の安定性へ向かう進化傾向。寿命(長時間存続するか)、多産性(複製が速いか)、複製の正確さ、においてすぐれた分子の含有率がより高くなっているだろう。
◾彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生みだした。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。いまや彼らは遺伝子という名で呼ばれており、われわれは彼らの生存機械なのである。
◾体は遺伝子を不変のまま維持するために遺伝子が利用する手段。
◾昔、自然淘汰は、原始のスープの中を自由に漂っていた自己複製子の生き残り方の差によって成りたっていた。今では、自然淘汰は生存機械をつくることのうまい自己複製子に、つまり、胚発生を制御する術にたけた遺伝子に有利にはたらく。
◾G·C·ウィリアムズの定義。遺伝子は、自然淘汰の単位として役立つだけの長い世代にわたって続きうる染色体物質の一部と定義される。遺伝子は複製忠実度のすぐれた自己複製子であるといえる。
◾厳密にいうなら、この本には、利己的なシストロンでも利己的な染色体でもなく、いくぶん利己的な染色体の大きな小片とさらに利己的な小さな小片という題名をつけるべきであったろう。
◾この議論の基礎となるのは、前にも述べたように、遺伝子が潜在的に不死身であるのに対して体その他といったもっと上の単位はすべて一過的なものである、という仮定であった。
◾進化は、遺伝子プール内である遺伝子が数をまし、ある遺伝子が数を減らす過程である。
◾「この形質は遺伝子プール内で遺伝子の頻度にどんな影響を与えるのか?」
◾負のフィードバック。「目的機械」つまり、意識的目的をもっているかのようにふるまう機械ないしものは、ものごとの現在の状態と「望みの」状態とのくいちがいを測る一種の測定装置をそなえている。それは、このくいちがいが大きいほど、機械がけんめいにはたらくように造られている。こうして、機械は自動的にくいちがいを減らそうとする。そして「望みの」状態に達すると、機械は止まる。
◾どちらをとるにせよ、危険はあるが、自分の遺伝子が生き残る機会を長い目でみて最大にするような決定を下さねばならない。
◾進化とは、たえまない上昇ではなくて、むしろ安定した水準から安定した水準への不連続な前進のくりかえしであるらしい。
◾遺伝子は他の体に宿る自分自身のコピーをも援助できるらしい。
◾何もしないことが正味の利益の得点を最高にする「行動」であるならば、モデル動物は何もしないであろう。
◾一方、生存機械というものは、一般に遺伝子という利己的な存在によって支配されており、しかもこの遺伝子という存在は、将来を先取りしたり、種全体の幸福を心配するようなものとはおよそ考えられないというのが本書の基本前提である。
◾一見貞節な一夫一婦制を示す種の場合ですら、雌は雄と個体的に結びつくというより、むしろ雄の所有するなわばりと結婚するのかもしれないのである。
◾個体群があまり大きくなると、なわばりをもてない個体ができ、彼らは繁殖できないことになろう。
◾雌性とは搾取される性であり、卵子のほうが精子より大きいという事実が、この搾取をうみだした基本的な進化的根拠なのである。
◾雌がその配偶者から加えられる搾取の程度を減らすための切り札=交尾拒否。しかし交尾後切り札は切られるため、戦略として、家庭第一の雄を選ぶ、たくましい雄を選ぶ。
◾長い婚約期間を強要することによって、雌はきまぐれな求婚者を除外し、誠実さと忍耐という性格を事前に示すことのできた雄とだけ、最終的に交尾すればよいのである。
◾雌は、交尾に応ずる前に雄が子どもに対して多量の投資をするように仕向け、そのため交尾後の雄はもはや妻子を棄ててもなんの利益も得られないようにしてしまうことができるのではないだろうか。

ミームーー新登場の自己複製子
人間の特異性「文化」。文化的伝達は遺伝的伝達と類似している。言語は非遺伝的手段で「進化」。鳥の囀ずりにもみられる。
人間の文化というスープ。模倣の単位。旋律、観念、キャッチフレーズ、ファッションなど、いずれもミームの例。
遺伝子が遺伝子プール内で繁殖するにさいして、精子卵子を担体として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームミームプール内で繁殖するさいには、広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩くのである。
評価を得た考えが、脳から脳へと広がって自己複製するといえるわけである。
N·K·ハンフリー「······ミームは、比喩としてではなく、厳密な意味で生きた構造とみなされるべきである。君がぼくの頭に繁殖力のあるミームを植えつけるということは、文字通り君がぼくの脳に寄生するということなのだ。ウイルスが寄生細胞の遺伝機構に寄生するのと似た方法で、ぼくの脳はそのミームの繁殖用の担体にされてしまうのだ。これは単なる比喩ではない。たとえば「死後の生命への信仰」というミームは、世界中の人々の神経系の一つの構造として、莫大な回数にわたって、肉体的に体現されているではないか」。
「神」の観念。ミーム·プールの中において神のミームが示す生存価は、それがもつ強力な心理的魅力にもとづいている。実存をめぐる深遠で心を悩ますもろもろの疑問に、それは表面的にはもっともらしい解答を与えてくれるのである。現世の不公正は来世において正されるとそれは主張する。われわれの不完全さに対しては、「神の御手」が救いを差しのべて下さるという。医師の用いる偽薬(プラセボ)と同様で、こんなものでも空想的な人々には効き目があるのだ。これらは、世代から世代へと、人々の脳がかくも容易に神の観念をコピーしてゆく理由の一部である。人間の文化が作り出す環境中では、たとえ高い生存価、あるいは感染力をもったミームという形でだけにせよ、神は実在するのである。
「観念(アイディア)のミーム」は、脳と脳のあいだで伝達可能な実体として定義されうるはずなのである。つまり、ダーウィン理論のミームとは、この理論を理解しているすべての脳が共有する、その理論の本質的原則のことなのである。
遺伝子が、その生存機械に、ひとたび、速やかな模倣能力をもつ脳を与えてしまうと、ミームたちが必然的に勢いを得る。模倣に遺伝的有利さがあれば確かに手助けにはなるが、そんな有利さの存在を仮定する必要すらないのである。唯一必要なことは、脳に模倣の能力がなければならないということだけである。これさえ満たせば、その能力をフルに利用するミームが進化してゆくだろう。
私たちには、私たちを産み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを強化した利己的ミームにも反抗する力がある(例:避妊)。

◾「やられたらやり返す」は最初の勝負は協力ではじめ、それ以後は単純に前の回に相手が引いた手をまねするだけである。いつでも、何がおこるかは相手のプレイヤーしだい。相手も同じ戦略の場合、両方とも「協力」からはじめ、ずっと「協力」を引きつづけるため、600点という「基準」の100%の得点を得ることになる。
◾妬み屋であるというのは、絶対的に多額の金を胴元からせしめることよりも、相手のプレイヤーよりも多くの金額を得ようと努力することを意味する。妬み屋ではないということは、たとえ相手のプレイヤーがあなたと同じだけの金を得たとしても、それによって二人ともがより多くの金額を胴元から得ることができるかぎりまったく満足するという意味だ。「やられたらやり返す」はけっして実際にゲームに「勝つ」ことはなく、せいぜいうまくいって引き分けだが、しかしそれによってともに高得点を達成する傾向がある。
しかし悲しいかな、心理学者たちが現実の人間のあいだで「反復囚人のジレンマ」ゲームを実施するときには、ほとんどすべてのプレイヤーが妬みの誘惑に屈し、そのため相対的にとぼしい金額しか得ることができない。
ゲーム理論家はゲームを「ゼロサム」と「ノンゼロサム」に分ける。前者は一方のプレイヤーの勝利がもう一方のプレイヤーの敗北となるもの(チェス等)。「囚人のジレンマ」は後者。お金を支払う胴元がおり、したがって二人のプレイヤーは手を組んで、終始ずっと胴元をこけにしつづけることが可能である。
◾事実の問題として、実生活の多くの側面はノンゼロサム·ゲームに対応するものである。自然がしばしば「胴元」の役割を果たし、したがって個々人(あるいは各個体)は、お互いの成功から利益を得ることができる。自分が利益を得るために必ずしもライバルを倒す必要はないのだ。利己的遺伝子の基本法則から逸脱することなく、基本的に利己的な世界においてさえ、協力や相互扶助がいかにして栄えうるのかを、われわれは理解することができる。アクセルロッドの言う意味で、なぜ「気のいい奴が一番になる」かを理解することができるのだ。
しかし、ゲームがくりかえされなけれないかぎり、こういったものは何ひとつとして作動しない。プレイヤーたちは今やっているゲームが最終回ではないということを知って(あるいは少なくとも「わかって」)いなければならない。アクセルロッドの常套句でいえば「未来の影」は長くなければならないのだ。
重要なのは、どちらのプレイヤーもゲームがいつ終わりになるかを知っていてはならないということだ。
◾ゲームの長さの推測値が長ければ長いほど、より気がよく、より寛容で、より妬みを示さなくなる(「反復囚人のジレンマ」のように)。ゲームの未来についての推測値が短ければ短いほど、より意地悪で、より妬み深くなる(一回限りのゲーム「囚人のジレンマ」のように)。
◾アクセルロッドのプログラムは、われわれが本書を通じて、動物、植物、そしてじつは遺伝子について考えてきたやり方にとって、一つのみごとなモデルである。したがって、彼の楽観的な結論(妬み深くなく、寛容で、気のいい戦略の勝利)が、自然界にも適用できるかどうかと問うのは自然なことである。答えはイエスで、当然そうなるのである。唯一の条件は、自然がときどき「囚人のジレンマ」ゲームを設定しなければならないこと、未来の影が長くなければならないこと、そしてそのゲームがノンゼロサム·ゲームでなければならないことである。このような条件は、生物学のいたるところで確実に満たされている。
◾フィッシャーは実際に不平等な性役割の分担をしているつがいが崩壊する傾向をもつことを観察している。

◾遺伝子は自らの「体」の外まで手を伸ばして、ほかの生物体の表現型に影響を及ぼすのである(寄生者と寄主)。
◾自らの遺伝子がその寄生の遺伝子と同じ運命を切望する寄生者は、あらゆる利害を寄主と共有し、最終的には寄生的に作用することをやめるだろう。
◾ウィルソンの『昆虫の社会』の中で私が気に入っているキャラクターは、ヒメアリの一種Monomorium santschiiである。この種は、長い進化の過程で、ワーカーというカーストを完全に失ってしまった。寄主のワーカーが寄生者のためにあらゆることをし、あらゆる仕事のうちでもっとも恐ろしいことさえやるのだ。侵入した女王の命令によって、ワーカーたちは自分たち自身の母親を殺すという所業を実際におこなうのである。王位強奪者は自らの顎を使う必要がない。マインド·コントロールを用いるのだ。どうやってそうするのかは謎である。おそらく女王は化学物質を採用しているのだろう。
それはワーカーのアリの脳を満たし、筋肉の手綱を握り、その深く植えつけられた義務を放棄するよう迫り、ワーカーをワーカー自身の母親に敵対せしめる。
延長された表現型の世界では、動物の行動はいかにしてその遺伝子に利益を与えるかを問うのではなく、それが利益を与えているのはだれの遺伝子なのかを問わなければならない。
◾しかし、もっと穏やかなやり方ではあるが、自然界には同種あるいは別種の他の個体を操作する動物や植物がいっぱいいる。自然淘汰によって操作をする遺伝子が選ばれたすべての場合において、それらの遺伝子を、操作される生物の体に(延長された表現型)効果を及ぼすものとして語るのは理にかなっている。
◾「延長された表現型の中心定理」
動物の行動は、それらの遺伝子がその行動をおこなっている当の動物の体の内部にたまたまあってもなくても、その行動の「ための」遺伝子の生存を最大にする傾向をもつ。
行動だけでなく、色、大きさ、形状、そのほかなんにでも応用できる。
◾自己複製子/ヴィークル(乗り物)、それぞれの役割
自己複製子=自然淘汰の根本的単位、生存に成功あるいは失敗する基本的なもの、時々ランダムな突然変異をともないながら同一のコピーの系列を形成(DNA分子=遺伝子)。ヴィークルの中に寄り集まる。
ヴィークル=われわれ自身のような個体の体。
◾それぞれのタイプの細胞の遺伝子は、繁殖のために特殊化した少数派の細胞、不死の生殖系列の細胞内にある自らの遺伝子のコピーに直接の利益をあたえているのである。

◾にもかかわらず、あらゆるレベルで、ゲーム理論の概念的な構造と社会進化の概念的な構造のあいだに有益な類似性が存在するのである。
◾たとえば私は、ゲーム理論が「進化的に安定な戦略」におおむね対応するような概念にすでに名(「ナッシュ平衡」)を与えていたことを、ごく最近になって知ったのである。
◾彼は、「自己複製子」(繁殖の過程でその厳密な構造が複製される実体)と、「ヴィークル」(死を免れず、複製されないが、その性質は自己複製子によって影響を受ける実体)のあいだの根本的なちがいを認識するように、われわれに強く訴える。われわれがよく知っている主要な自己複製子は、遺伝子および染色体の構成要素である核酸分子(ふつうはDNA分子)である。典型的なヴィークルは、イヌ、ショウジョウバエ、そして人間の体である。