犬から見た世界

◾科学者は自然界でのオオカミの行動についてわずかしか知らないし、現在知られている事柄も、オオカミ=犬のたとえが根拠にしている従来の知識とは、しばしば矛盾しているのだ。
◾それに加えて、トレーニングの方法自体、科学的にテストされたものではない(テスト済みだと主張するトレーナーもいるが)。科学的テストとは、訓練を受けた実験グループと、訓練をうけないだけであとは同じ生活を送っている対象グループの行動を比較して、プログラムの有効性を評価するものだが、そのようなテストを経た訓練プログラムは皆無である。トレーナーのもとに来る人々には、しばしば共通して二つの特徴が見られる。ひとつは、彼らの犬が「犬の平均」よりも「従順でない」ことであり、もうひとつはその飼い主が「飼い主の平均」よりも、それを変えたいという意欲が強いことだ。この二つの条件の組み合わせと、数ヶ月という訓練期間を考えれば、訓練のあとでその犬の行動がまったく変わるというのはきわめて考えられるーーどんな訓練だったかには関係なく。
◾決定的なのは、訓練がふつう飼い主に合わせて行われることだ。飼い主が犬の役割をどう見ているか、犬に何をさせたいのかに応じて、その犬を変えるのである。その目標は、本書の目的とはまったく違う。わたしたちの目的は、犬が現に何をするのか、犬が飼い主に何を望み、飼い主の何を理解するのかをみることなのだ。
◾本質的に人間の経験という偏見に染まっているわたしたちは、動物の経験については、自分の経験と相応する程度までしか理解できない。動物について自分たちが思っていることと矛盾しない話を記憶し、そうでない話は都合よく忘れる。ちゃんとした証拠のない「事実」を平気で語る。
◾この種の誤りをただすには、わたしたちの擬人化本能を「行動を読む本能」に置き換えればよい。ほとんどの場合これは簡単である。まずは犬に、何を望むか聞いてみる。あとは彼の答えをいかに翻訳するかを知るだけでよい。
◾犬の「見方」の想像。動物の生活を理解したいならば、彼(20世紀初頭のドイツの生物学者ヤーコプ·フォン·ユクスキュル)がウムヴェルトと呼ぶものーー動物の主観、もしくは「自己世界」〔環世界もしくは環境世界と訳されている〕ーーを理解するところから始めなくてはならない。
◾二つの構成要素ーー知覚と作用ーーは、すべての生きものにとっての世界をほぼ定義し、境界を定める(ウムヴェルト=環世界)。彼らだけの主観的現実、その動物が永久にとらえられている「石鹸の泡」。人間も同じ。
◾犬の味覚受容体(レセプター)
辛い、甘い、苦い、酸っぱい、ウマミ(あの土くさい、キノコと海草のエキスで、風味を高めるグルタミン酸ソーダにとじこめられているもの)。
彼らの甘さの知覚は私達のそれとは少し違って処理される(塩分による甘味の増強に関して)。甘さの受容体はとくに豊富。スクロース(蔗糖)やフクルトース(果糖)はグルコース(ブドウ糖)などよりも多くの受容体を活性化。この事は犬のような雑食性動物には有利だった。植物や果物が熟しているかどうか区別できるからである。
◾家畜化のプロセスはおそらく、初期のイヌ科動物が人間の集団のまわりで食べ物ーー残飯ーーをあさることから始まったのだろう。それゆえ犬が根っこの部分でオオカミだという理論から、彼らに生肉しか与えないというのはじつに馬鹿げている。犬は雑食性であり、何千年ものあいだ人間が食べるものを食べてきたのである。ごくわずかな例外はべつとして、人間の皿にあって美味しいものは、犬の餌入れにあっても美味しいのである。
◾犬は人間の幼児と同じく、いわゆる「愛着」を示し、ほかの者よりも世話をしてくれる者を好む。彼らは世話をしてくれる者から離れることに不安を感じ、戻ってきた相手に特別な挨拶をする。
◾犬とオオカミの違いの一つ、アイコンタクト。犬は情報を求めてわたしたちに目を向ける。オオカミはアイコンタクトを避ける。
◾罰を与えるかわりに、彼ら自身にどの行動が報酬を受け、どの行動が無駄に終わるか気づかせるならば、学習は最高にうまくいくだろう。
◾犬にみずからの観察能力を使わせるのである。望ましくない行動をしたら、飼い主の関心も、食べものも、何ももらえない。あなたからほしいものは、何も手に入らないのだ。ちゃんと行動すれば、それが全部手に入る。このプロセスは、子どもが大人になるプロセスにおいて不可欠の部分である。
◾彼らの脳は、意図するより前に行動するよう配線されている。彼らには自分自身と自分の家族、そして自分の領域を防衛しようとする、必ずしも予測できない衝動がある。

◾人間が世界を見るように、犬は世界を嗅ぐ。犬の宇宙は、複雑な匂いの層からできている。匂いの世界は、少なくとも視覚の世界と同じくらい豊かなのだ。
◾さらに最近の研究によると、犬に抗生物質を与えすぎると体臭が変化し、ふだん放出している社会的情報が一時的に混乱してしまうらしい。もちろん医薬品を適切に使うことは必要だが、その際は体臭の変化とその影響について気を配るべきである。

◾犬は、オオカミと同じように、目、耳、尻尾、そして姿勢そのものでコミュニケーションを行う。
◾犬もまた非言語による無数の相互伝達手段を発達させてきた。
◾動物にあるのは、情報を送り手(話し手)から受け手(聞き手)に伝えるひとまとまりの行動システムである。
◾動物たちはしばしばボディランゲージ(四肢、頭、目、尻尾、もしくは体全体)を使い、あるいは色を変えるとか、排泄、あるいは自分を大きく、もしくは小さくするといったコミュニケーション手段を使う。
◾人間とくらべて発声のレパートリーが乏しい動物にとっては、姿勢はさらに重要である。そして犬は、特異な姿勢を使ってきわめて特異な意味を伝達しているようなのである。
◾体を使う言語がある。臀部、頭、耳、足、そして尻尾という音素で形成される言語だ。犬は、この言語を直感的に翻訳する方法を知っている。
◾人間は犬から見ると、途方もなくぎこちない生きものに見えるに違いない。彼らのほうは体の体勢とその高さを変えることで、遊びの体勢から攻撃、そして求愛の意図まで、あらゆることを表現できるのだ。
◾驚くべきことに、犬は、相手の犬の高さよりもその姿勢のほうを気にかける。体の高さをそのまま自信とか支配性につなげることはないのだ。
◾犬は尻尾を左右非対称に振る。飼い主や興味ある対象(人や猫)を見たときなど、平均では尻尾の向きは右側に強くなる傾向。知らない犬に出会ったときなどは左に振る傾向。
◾犬は体を使って表現する。コミュニケーションが動きに書き込まれているのだ。
◾彼らは口がきけないのではない。言語の音(ノイズ)がないだけなのだ。

◾犬は視野が広く、周辺にあるものがよく見えるが、真ん前にあるものはそれほどよく見えない。
◾犬はわたしたちの目を検知するのはあまり巧みではない。わたしたちの顔全体の表情のほうをよくとらえる。指差しや方向転換によく従うのもそのため。犬の視覚は他の感覚の補足手段。耳で音をおおまかにつきとめ、目を向け、鼻使って詳細に調べる。
◾犬は自分たちが見るのを予期しているものではなく、実際に見るもの、直接見る細部に、はるかに関心をもつ。
◾注意を払う=いま見たもの、聞いたものが何かを考える。
わたしたちが他者の「注意」を気にとめるのは、それによってその人間がつぎに何をするか見るか知るかが予測できるから。自閉症者は、相手の目を見ることができないか、見ようとする気持ちが欠けており、結果、他者の注意ーーそれをどのように操作するか、その背後の「心の事実」ーーを理解することができない。
◾犬のアイコンタクト(人やオオカミやその他動物では「攻撃的」要素)
この行動は「人間を見ること」がもつサバイバル上の価値ゆえに強化されたと考えられる。幼児同様、おとなの顔は多くの情報ーーとりわけ食事ーーをもっている。恐怖に打ち勝つ価値がある。犬が人間を見つめ、人間がそれによく反応するとき、それは幸福な状況である。こうして犬と人間の絆は強まっていくのだ。
◾むしろ「フェイスコンタクト」?犬は幼児と同様、顔を見るとき、特別な傾向を示すーー最初に左(顔の右側)をみるのだ。ただし人間の顔を見るときだけ。他犬に対してはこの視野バイアスを全く示さない。犬は、「人間が人間を見るように」人間を見ることを学習したのである。
◾指し示し
腕、肘、足だけでなく、人間の頭の方向ーーその視線ーーから得た情報も利用できる。
◾犬は、人がどの程度注意しているかな正確に気づき、それに応じて行動を変えたのである。
犬は飼い主の注意のレベルを系統的にとらえ、どういう状況ならば飼い主に言われたことを破っても大丈夫かを決めた。
◾霊長類とくらべて犬ははるかに人間に似ていない。だがわたしたちの視線の背後にあるものに気づき、それを使って情報を手に入れ、あるいは自分たちの利益になるように使うということになると、はるかにすぐれたスキルを発揮する。

◾犬の成績が悪いのは、彼らが人間をあてにする傾向によって説明できるのだ。
◾犬の認知能力。犬は問題解決に人間を使うことにおいて、素晴らしく巧みであるが、人間がそばにいないときに問題を解決するのは不得手である。
◾犬を訓練するときにはこの先ずっとくりかえしてほしい行動にだけ報酬を与えなくてはならない。
◾だがふつう、子どもは最終的に心の理論を発達させる。どうやらその発達は、いままで述べてきたプロセスーー他者に注意を払い、そのあと他者の注意に気づくーーを通じて行われるようである。自閉症の子どもの多くは心の理論を持っていないようだ。殆どの人々にとっては、視線と注意の役割に気づくことと、そこに心があるのに気づくこととの間には、ひとつの大きな理論のステップがあるに過ぎない。
◾アテンションゲッター=相手の注意をひく為の行為
軽➡️「インユアフェイス」相手の目の前に立つ。「おおげさな後退」相手の犬を見ながら後ろにはねる。
強引➡️「噛む」「体をぶつける」「吠える」
成功後、遊びの信号を送る。
◾遊びの信号
典型的な信号はプレイバウ(遊びのお辞儀)。犬は遊びたい相手の前で卑屈な態度をとる。前足を折ってかがみ、口をだらしなく開き、尻を上げ、尻尾を高く振り、相手を遊びに誘おうと最大限の努力を払う。
馴れたもの同士では、プレイスラップ(遊びたたき、お辞儀の最初に前足で地面をたたく)、オープンマウス·ディスプレイ(口は開けているが歯はむき出さない)、ヘッドバウ(頭のお辞儀、口を開けて頭をぴょこんと上げ下げする)などですまされることになる。息の速いハンティングでさえ、遊びの信号になりうる。
◾犬によってはアテンションゲッティングなど気にもとめず、吠えるだけの者もいる。反応がなくても、ひたすら吠えて吠えて吠えまくる。またある犬たちは、すでに相手の注意がこちらに向いているのに、アテンションゲッターを使ったり、遊びがすでに始まっているのに遊び信号を使ったりする。統計からみると、ほとんどの犬は気を配った行動を見せるが、例外も多い。
◾注意の利用と遊び信号を駆使する彼らのスキルは、犬が初歩的な心の理論を持っていることをほのめかす。
◾犬の遊びを観察していると、アテンションゲッティングと遊び信号の暗黙の規則を破っている犬たちは、遊び仲間として避けられていることがわかる。言ってみれは適切な、気配りの利いた手続きを踏まずに、ひたすら乱暴に他者の遊びに割りこんでくる犬たちは仲間はずれにされるのだ。
◾ごめんねというプレイスラップ(前足で地面をたたく。お辞儀のより軽いバージョン)。

◾ある理論は、犬の夢もまた、人間の場合と同じように、レム睡眠(身体の回復の時間)の偶発的な結果だとしている。あるいはまた夢とは、想像という安全空間のなかで、未来の社会的相互作用と肉体的スキルを練習するための時間として、あるいは過去の相互作用と技を省みるための時間として、機能するのかもしれない。
◾彼らのヒゲは、空気中のいかなる匂いの方向も示すようにうまく配置されているのだ。
◾学習とは時を経ての連想もしくは出来事の記憶なのである。
◾犬がはっきり知っているのは、飼い主が不快な表情をして出現したら、罰が近いということなのだ。犬は自分が罪があるとは知らない。

◾犬であるとはどういうことか
匂いに満ち、人間たちが大きな場所を占めている。地面に近く、舐められ、口にくわえられるかくわえられないか。
◾地面に近い世界というのは、匂いの強い世界である。匂いは地面にとどまり、沈滞するからだ。一方、空中では四方に発散してしまう。
◾音もまた地上近くでは伝わり方が異なる。地中の生き物は地面を使って物理的に伝達することが多い。床の振動は近くにいる犬を動揺させるかもしれず、大きな音は床で弾んでもっと大きくなり、休んでいる犬の耳に入ってくる。
◾舐める。
◾犬にとって、もののアイデンティティの本質的な部分は、彼らの網膜がすみやかに検知する「動き」である。すばやいリスとのろまなリスは違うリスかもしれない。スケートボードをやっている子どもと、抱えている子どもは、違う子どもだ。かつて、動く獲物を追うようにデザインされた動物らしく、犬にとって動いているものは、静止しているものよりも興味深い(動かないリスでも、走るリスになることを学習すれば、静止した相手でも追いかけるだろう)。
➡️動くもの、動かないものを別のものと認識。
◾犬の対象の定義➡️動き、匂い、口に入れられるか。
◾犬は細部に関心を寄せるが、それは細部から一般化する能力を邪魔するのかもしれない。犬は木をクンクン嗅ぐが、森を見ない。車で犬を落ち着かせたいとき、お気に入りのクッションが役立つ。怖いものや人物でも、新しい状況に置かれると、怖くないものとして生まれ変わることがときどきある。
この限定性こそ、犬が直接目の前にないものごとについて抽象的に考えないことを示すものかもしれない。
◾匂いは時間を物語る。過去は、弱まった、あるいは劣化した、あるいは覆われた匂いで示される。時間がたてば、匂いは強さが弱まるため、匂いの強さは新しさを、匂いの弱さは年輪を示唆する。
◾こう考えると、犬によく見られるある種の行動の説明がつく。ひとつは犬がたえず匂いを嗅いでいることであり、もうひとつは、犬の注意がいかにも散漫に見えることだ。彼らはつねに注意をあちこちに分散させて、忙しく嗅ぎまわっている。犬にとって、対象が存在するのは、匂いが発せられ、その匂いを吸い込むあいだだけなのだ。
◾犬の鼻は、わたしたちの視覚と皮膚感覚のかわりを務める。春の空気を鼻いっぱいに嗅げば、冬の空気とは著しく違った匂いが入ってくる。
◾彼らの感度は超自然的であるーーわたしたちよりほんの少し速いのだ。彼らの行動が始まったとき、人間は見ていない。
犬と人間では「瞬間」が異なり、犬が「いましていること」についての感覚も異なる。クリッカーレーニングは、この不一致に対処している。
◾生後2週間から4ヶ月まで、子犬は他者(どんな種でも)から学習するための窓が特に大きくなっている。どんな犬も、離乳しないうちに母親から引き離されるべきではないが(6~10週間)、それと同時に、犬にはきょうだい犬や人間との接触が必要なのである。
◾動物行動学において、これは「相互模倣的行動」と呼ばれており、動物のあいだでの良き社会的関係の発達と維持にかかわっている。
接触、挨拶、タイミング。
◾犬と人間の絆を強めるのは、接触であり、同調性(シンクロニー)であり、さらに再会のときの挨拶の儀式である。
◾この結びつきはきわめて根深く、反射のレベルにおいて本能的。犬は人間のあくびに感染する。
◾あなたの犬は社会的動物なのだ。その生活の大部分をひとりで過ごさせないことである。
◾凝視と一緒に、舌をすばやく空中に出して舐めるのは、攻撃的というよりもっといとしげな行動である。
◾つまりわたしたちが犬に苛だつ理由の多くは、犬のもつ動物らしさを無視した極度の擬人化から生ずる。
◾擬人化に代わる姿勢は、たんに動物を「人間でないもの」として扱うことではない。今のわたしたちには、彼らの行動についてより正確に見るためのツールがある。彼らの環世界、そして知覚と認知能力を心に留めるのだ。動物に対して感情に動かされないスタンスをとる必要もない。科学者もまた擬人化を行っている······自分の家で。
◾犬に名前をつけることは、彼を個人的なものーーつまり擬人化できる存在ーーにするプロセスの始まりであり、その犬の本性を理解しようとする関心のあらわれであり、犬が育ち上がっていく個性への出発点だ。名前をつけないというのは無関心の極致のように思われる。
◾わたし自信、犬にどんな名前がいいか、いろいろ考え、いくつもの名前を呼んでは、どの名前にいちばんすみやかに反応するか見ようとしたものだーー「ビーン!」「ベラ!」「ブルー!」。そんなときわたしは、自分が「彼女の名前」ーーすでに彼女のものである名前ーーを探していると感じた。そしてその名前とともに、人間と動物のあいだの絆がーー投影ではなく理解によって織りなされた絆がーー形成されはじめるのである。
◾それでは、あなたの犬のところにいき、観察してみよう。彼の環世界を想像しーーそして彼にあなた自身の環世界を変えさせるのだ。

◾「わたしたちと犬は、群れというよりも仲良し集団(ギャング)に近い。楽しく、無為に、ギャングの維持のほか何も求めずに自己満足しているだけのギャングだ」