近未来のブッダ

◾慈悲深い人とは、生きものとしては実に不自然な状態の人。
◾俗世間の生き方とは、つねに特定の相手に対しての情動の世界。
◾ゴール次第で相手や対象物との役割が明確になる。
◾「自分のところに返ってこない。だったらやる」。それが慈悲行為。「かわいそう、助けたい」という情動が動機ではない。「お金があるから必要な人に使ってもらおう」という感じで淡々と配る。情動からではない寄付の場合、気前よくお金を出したら、その結果についてはあまり頓着しないもの。
◾自分以外のことを真剣に考えるのが、実は自分を真剣に考えることにもなるというパラドックス
◾抽象度の高い思索を通じて行きつく一つの大きな核心、それは「自分が幸せなのは自分以外の人が幸せだからだ」という発見。
◾自分が天国に行きたいからという利己的な心で宗教行為をするのは、本当の信仰とは言えない。
◾善悪に対する迷いがある理由は、実は、今の時代の一般的な善悪というのは、その国が決めた基準に対しての逸脱の度合いのことになっているから。違反の度合い。
◾今の国際政治の論理は、お互い干渉せず、それぞれの国の政治が善悪を決める。おおよそ政治的文脈で成り立っていて、人間本来の善悪はない。
◾1931年にゲーテルが部分的に証明し(ゲーデル不完全性定理)、1981年にチャイティンが、数学全体に対して不完全性定理を証明した通り、この世に完全情報はありません。
「私たち人間は神ではないので部分情報で生きています」。定義上全知全能の神はいない。神が存在したときにのみ完全情報というのは成り立つ。人間は部分情報しか持てない。だからこの世に善悪はない。
◾今の日本の学校教育は、トロッコ問題に即答できる人間を育てているような気がしてなりません。
◾「他の人のため」の慈悲だが、大きな慈悲なら、その「他の人」に自分も自然と入ってくる。たとえば、「この世から戦争と飢餓をなくす」ことという私のゴール設定の対象は「全人類」。そこにはもちろん「私」が含まれている。
◾慈悲でないもの=「自分のためにやること」すべて。仏教で言えば、苦行がその最たるもの。
◾しかし、自分のゴールを追求するための一環としてではあっても、他人のために行為するトレーニングなら慈悲につながる。他人が幸せになるための瞑想ならアリ。どんな修行やトレーニングでも、自分が悟るために瞑想や苦行をするとしたら、慈悲にならない。
◾仏教は神の存在を前提としない。たんなる気づきであり、慈悲の世界。自分が幸せなのは周りの人が幸せだから。それだけ。それが大乗仏教
◾「人間は、自分以外の人の喜びしか自分の幸せにならない」。これこそ前頭前野の気づき。
◾「上から目線で与えるものはぜんぶ慈悲じゃない」
◆慈悲の定義
慈悲は情動ではない
慈悲は行動するもの
きわめてIQの高い前頭前野を使った行動
苦行や瞑想からほど遠いもの
徹底的に自分以外のこと
慈悲は上から目線ではない
他者の苦しみを最小化する
他者の幸せを最大化する
人間は、自分以外の人の喜びしか自分の幸せにならない、だから慈悲は幸せの道。慈悲の体感、めちゃくちゃハッピー。

◾たとえば、一本の木が種を落として、それが育って葉が出てきたら、それは前の木が生きているとみなす。それが縁起の思想。しかし誤解されるとそれは生まれ変わりの思想になってしまう。
生命そのものに死はなく、人類滅亡=死かというと、そうとも言いきれない。人体を作っていた大腸菌は生きているかもしれない。
◾すべては縁によって起こる。そして、厳密に言えば慈悲は悟った人以外、持ち得ない。慈悲を体現したらそれは悟った人。でも、私たちは無明=悟っていないのだから、慈悲ではなく、慈悲の心で活動するのであって、慈悲深い人になるのであって、悟ってなくてもあたかも悟った人であるかのように行動して、あたかも悟った人の心であるかのようにふるまうにすぎない。でも、それでこそじゅうぶんに社会の役に立てる。
◾これからの慈悲は「一緒に楽しみましょう」「一緒に幸せになりましょう」。現代的·大乗的コンパッションは「一緒に、嬉しい·楽しい·気持ちいい·清々しい·誇らしい」でいい。ただし、その主体はつねに相手·自分以外。コンパッションの「con(m)」は相手が主体。自分が楽しいことが隣の人の楽しいことである保証はどこにもないので、そこは自分の抽象度を一つ上げて見極めないといけない。
◾「おれが飲んでいる酒はうまいからおまえも飲めよ」や「私の持っているこれはすごく便利だからあなたも持ったら?」はNG。
◾自分以外の人の利益の最大化。自分以外の人がとにかく「嬉しい·楽しい·気持ちいい·清々しい·誇らしい」と思えることを実践するのが慈悲。できるだけたくさんの人に、そのたくさんの人の中に自分も入れていい。地球人全体への慈悲なら、そこに当然、自分も含まれる。

◾幸せも不幸も自分の心が作るもので、実体的な幸福や不幸はない。幻想はいけないことではなく、ポイントは、幸せな気分は幻想だとわかっていることにある。
◾何を幸せとするかはその人の自由。ただし、それらはぜんぶ幻想。幻想だと見破っていることが大事。幻想だから好きなものを選べるのであって、幻想だとわかっていないと際限がないので「他人のまで奪ってやろう」と思ったりするかもしれず、危険なことになる。しょせん幻想だと見破りわかっていたら、他人のぶんまで奪うほどのものではないと正しく理解できる。
◾幻想を見破った上で、幻想を使いながら、他者の五大感情を高める工夫をしていく。

◾他者がある限り慈悲が必要(他を殺したりしないよう)。他者がない概念をいつか覚えないといけない。それはつまり、慈悲を乗り越えるということ。
抽象度が極限まで上がれば、すべてが自であり他になり、同情や憐れみなどを持ち得なくなる。私たちは慈悲を乗り越えるものとして設定して、いつか乗り越えることができるということを確信し、そこに向かって実際に役立つ行動を起こさなくてはならない。
行為はものすごくたくさん。相手の状況により行為が全部違ってくる。何が慈悲の行為かを先に定義することはできないが、他者は自分の延長なので、やりたいこと、やるべきことだと思えることはすぐに決まる。

◾基本はやっぱり縁起。この世にアプリオリはなく、すべて関係で成り立っているということ。
◾すべての結び目の重要性が同じと感じられないと縁起の理解にはならない。
◾だから仏教は、コーヒーカップとお母さんだったらお母さんのほうが大切だと言う人に「それを煩悩という」と言う。
◾煩悩はそもそもあって当然。私たちは一生煩悩と迷ったまま生きていく。そうでないとごはんを食べないで死んでしまう。「コーヒーカップとお母さんどっちが好き?」という問いかけに「いや、どっちかわかりません」と答える悟った人は、この世にいても、ちょっと迷惑。
◾慈悲は煩悩。自分の苦しみをなくしたいと思うのは煩悩だし、隣の苦しみをなくしたいと思うのも煩悩。そして、煩悩はあっていい。だから我々はごはんを食べて絶滅しないで生きられる。ただ、いつか越えることができる存在だというのが縁起の基本。

ブッダが問題にしていたのは、生老病死のどこかに関わる物理空間の苦しみ。現代では救いのレベルが、生老病死に関しては寺よりも大学病院のほうが高い。
◾仏教は、かつての大問題であった生老病死すべてに対して細かい分析を与え、それがいかに無意味かということを説明していく巨大な知識の体系。そのパラダイムが現代において有効かというと疑問。
現代人の悩みは基本的にはお金。それも信用創造により、ないところから生み出された元本に対する金利がその本質。これは仏教の体系では一切説明不能
◾容姿だって、ジーパンが破れているほうがいいとかいうことは、ブッタには理解不能。グローバルに情報化された世の中ならではの特徴がある。生老病死と同じように、容姿だって、生存に関わる欲求。そういう大脳辺縁系に関わる圧倒的な煩悩を情報空間のものが引き起こしてしまう。
◾かつてはブッダが「物理空間の問題はぜんぶ情報空間からきている」と教えることが有効な時代だった。情報空間に人間は物理空間と同じくらい臨場感を持てるから問題なんですよ、と教えることが仏教だった。
◾現代は物理空間はみんな満足ずみで、情報空間のほうが重要になってしまっており、みんなが欲しがるのは、簡単にいうと、よりかっこいい曼陀羅ポケモンGOのキャラクター。強い如来あるいはゲームキャラを得るために物理的に働いて得たお金を使ってしまう時代。つまり現代のニーズは「情報空間の苦しみの解決」。情報空間起源の物理空間の問題を解決する必要性が大きい。だからマインドフルネスがブームにもなる。
◾情報空間のことで身体にまでストレスが及ぶようになっている。生老病死の問題がもはや個人で解決できないところに及んでしまう時代。

◾イメージすることと考えることとの差は脳にとってあまりない。前頭前野で論理的な思考をするのを「考える」ということが多いが、実際にイメージするのも広い意味では思考。
◾オリンピックでボランティアやりましょう!みたいに、だいたい情動で出た慈悲は人に仕掛けられていることが多い。
◾慈悲はルールという概念とは全く違う。人を救うためにルールを作りましょうといったらそれは詭弁。
◾慈悲を実行するなら、権力からは離れること。大きな枠組みでいうと、国家権力と宗教が結びつくと、本来の宗教の慈悲や愛の教えからはほど遠いことになる。キリストが「イスラムを殺せ」と言うわけがないでしょう。仏教は本来は思想の体系で宗教でなく、墓も霊も超能力もマントラも否定するものなのに、どこかで宗教になってしまった。国家権力と結びつくと宗教化していったほうが有利。権力者に利用されている。