なぜ、脳は神を創ったのか?

◾脳が神をつくっている。
◾①神が存在する場合。神の情報は、五感をつうじて脳にインプットされ、その情報処理の働きによって、脳がリアルな神というものをつくっている。
◾神が存在しない場合。脳内情報は、②自分で生み出した幻想·幻覚の場合と、③他人がつくった幻想·幻覚の場合がある。後者は他人がその人に埋め込んだということであり、専門的にいえばこれを洗脳という。
◾つまり、一度、脳に神の情報が入ってしまうと、神が存在する場合としない場合(①~③)との間に、差はいっさいなくなっていまう。
◾このように本物の神が存在し、それを特殊な能力で認識した場合においても、結局は脳が一部分の情報に基づいて全体像をつくっている。とすれば、本物の神が存在していても、神の情報は脳がつくっているという点で、神が存在しない場合と同じになる。
◾「霊を見た」=自分の脳が生み出したもの、脳が物理現象を霊的現象として処理したために生じる幻想。それをもとに、霊感などの特殊な能力があると主張する人は100%オカルトと見て間違いない。壮大な宗教ストーリーや複雑な宗教システム=他人の脳が生み出したもの。
◾本物の神が存在しようがすまいが、すべて最後は、脳のなかの脳がつくった情報である。私たちが描く神とは人間の脳がつくりだしたものである。

◾人間が信仰心を抱く理由①自分が不完全な情報システムであることの自覚②シャーマニズムにみられるような信仰心の醸成③死の恐怖
◾自分が不完全な情報システムであり、無力な存在であることは嫌というほどわかっていますから、そうではない完全な情報システムに対する憧憬や畏怖の念が生まれるのも容易なことです。もちろん、そういうものと関係を持つと何かいいことがある、という意識も起こるでしょう。
絶対神のような神をつくりあげてきた思想の始まりは、このような完全情報に対する憧憬や畏怖の念といえます。自分が部分情報にすぎないという思いが、逆に、完全情報があるに違いないという考えに結びつきます。
そして、完全情報を求める心が信仰の念を強め、人間はそれに近づくためにさまざまな儀式や祭祀を生み出していきます。
シャーマニズムでは、村長である巫女や祈祷師がお祈りをして、雨を降らせたり、災害を予知したりする例がよく見られます。そのことが、普通の人々が完全なる存在を求める心に結びついていきます。
シャーマンに備わった特殊な能力が、祖先を敬うという人々の情動と合わさって、ひとつの宗教システムになっていく。このようにシャーマニズムにおいても、部分情報である人間が完全情報を求めようとするメカニズムが働き、人々の信仰心を強化していく。完全情報としての神の概念が、シャーマニズムのなかでも次第にはっきりとした輪郭を持つようになる。
◾死の恐怖は、殆どの生物のなかに情報として書き込まれており、死を恐れない生物はない。死の不安のない生物がいたとしたら、それは大喜びで死に絶える。死の恐怖は、脳の大脳辺縁系などに刻まれている、根源的な恐怖。
その恐怖心をやわらげるために、人間には「何らかのストーリー」が必要。それが、部分情報としての人間が絶対に体験しようのない死後の世界に対する、完全情報と見なされる側からのストーリーテリング。宗教の教義が持つストーリーはいずれも、こうしたストーリーテリングに当てはまる。そして、それが一番上手な人が教祖として、人々の信仰の対象に据えられることになる。
◾こうして生まれた人間の信仰心は、完全情報である神と接するための社会システムとして発展していく。➡️権力が生まれ、統治や支配の力関係が働きはじめる。

◾信仰心が機能すると社会秩序が生まれ、それが国家の成立につながり、そして、人間が文化的に進歩してきたことがわかる。
◾つまり、現代における世界の秩序、すなわち高度に発達した政治·経済·社会システムのすべては、人間の信仰心や宗教が大前提となって構築されてきたものである、ということ。

◾しかし、宗教学の対象宗教に釈迦の宗教が入るのかといえば、これを無条件で首肯するのはたいへん厳しいに違いない。なぜなら、オリジナルの釈迦の縁起の思想は、葬式はやるな、あの世はない、神はいない、魂はないという具合に、無神論といえるもの。神という概念を否定することも、実は、ひとつの宗教現象。
◾宗教学=そのときに大きな社会的インパクトを与え、その後にデファクト·スタンダードとして勝ち残ってきた宗教の特徴について研究する学問。
◾宗教学のいう宗教を離れ、宗教現象という見方をすると、それが人間の脳に組み込まれている現象である、という結論にたどり着かざるをえない。
なぜなら、人間の脳は、幻視、幻聴、幻覚をよく起こす。脳の情報処理は必ずしも正確ではなく、対象をその都度はっきりと認識するわけではない。今見ているものでさえ、実際は見ていないというケースも多々ある。見ていると自分で思っている対象が、過去の記憶からそれに似たデータを引っ張りだしているだけということもしょっちゅう。
脳が幻覚を見る仕組みは単純。脳には、物理空間と同じように情報空間をリアルに感じるカラクリが組み込まれている。過去の記憶から引っ張り出した情報を繋ぎ合わせて、リアルな幻覚を創りだしてしまう。

◾とくに、リーマン·ショックの後遺症にさらされる米国民の大多数は、奇跡やスピリチュアルな救済物語の虜にされている。政治サイドとしては、もっともらしい霊的存在に対する関心が高まることは、経済的困窮の問題から国民の目を逸らす、好都合な材料に違いない。
◾こうしてバチカンが「人間ではない」と認定するたびに、ヨーロッパ人の海外進出先で奴隷が生まれていく。キリスト教徒以外は人間ではなく奴隷だ、という当時のバチカンの判断が、ヨーロッパに莫大な富をもたらす。宗教と侵略(戦争)はワンセットのパッケージ。
◾人間に本来、禁忌として埋め込まれている一線を越えさせる論理を持つものは、そのすべてが宗教といわなくてはならない。人間が盲目的に信じる対象、本来備わっている「殺すのは嫌だ」という情報を覆してしまうほど強烈な幻想。つまり、交際相手をとった相手を殺すのは「俺の女をとりやがって教」、暴力団は「なめると殺しますよ教」、司法制度も「殺したら殺しますよ教」という宗教現象。
こうした広い意味における宗教現象が人を突き動かさないかぎり、人間は人殺しができないようになっている。

認知科学においての現実世界やリアリティーの定義=いま本人にとって臨場感のある世界。
◾お湯の温度と温度計の温度は違うため、それをビーカーに入れればお湯の温度が変わるに決まっている。すべての計測は、計測結果に必ず影響を与えるというのが、不確定性原理(二重スリット実験)。
子どもに計測可能と教えることは、この世に正しいひとつのモノサシがあると洗脳することと同じ。逆に、量子論は、この世に正しいひとつしかないモノサシは存在しえない、ということを教えている。
◾時間=最終ユニットがある、不連続。
◾時間と空間は、ともに不連続。
◾不連続なものを飛び越えられるのが生命現象。生命でないものは、ひとつの時間と空間に閉じ込められてしまう。時間と空間が流れているのは、生命だけ。
アインシュタインの方程式(E=m2C)からわかること=エネルギーは光のコンスタントの2乗であり、エネルギーと物質は同じもの。その原理をΔe×Δt>h(量子力学の不確定性の公式)に当てはめて考えると、物質においてもゼロの状態をつくれない=この世に真空はない。つくることはてきるが、つくった瞬間に、確率によって素粒子が生まれてきてしまう。従来の物理学では、この世は真空であり、その真空のなかにさまざまな物質が転がっているとされていた。
◾つまり、現象を成り立たせているのは物事の関係性であり、その関係性が「空」という概念。この世のすべての現象は、その関係性次第で「有であり、無である」ということ。これを量子論超ひも理論に当てはめると、ひもが振動しているときが「有」で、してきないときは「無」であるということになる。
このように、量子論が明らかにしたこの世の構造と、釈迦の空の概念は、非常によく合致する部分がある。
◾グリムの定理(1991)「神を完全な系と定義するとゲーデル=チャイティンの定理により、神は存在しない」
グリムの定理を覆すことのできる哲学者や宗教学者はいません。なぜかといえば、覆すためには、ゲーデルチャイティンの定理が間違っていると証明しなくてはなりません。そのためには、数学が完全であると証明しなくてはならないことになり、それは不可能なことです。
神と呼ぶ対象が存在すると主張するのはかまわないが、「完全ではない」といわなくてはならない。交通事故で子どもを亡くした家族に「君の思し召しです」と言ってはいけないということ。1991年は神が正式に死んだ年。
◾神の存在を感じるような神秘体験は、神がいるから実際に体験したのではなく、脳が情報処理を誤り、神の情報をつくってしまうことでもたらされる。それでもなお、神に救いを求めようとする人間が絶えないのは、不確定で不完全な世界に対して、人々がそれほど強烈な恐れを抱いていることの証左。
ゲーデルは、不確定性定理の証明が神の存在を否定するということに大変悩み、その後の人生を神の存在証明のために費やすようになる。
私は、ゲーデルの人生を考えると、宗教って怖いなあ、と思う。宗教のために、自分が成し遂げた大偉業が蹉跌となり、そのために残りの人生を捧げなければならなかったというのは「人生の皮肉」ですませられるものではない。
チャイティン不完全性定理の論文の最後に「私はなんと暗い証明をしてしまったことか」と記している。ヨーロッパ的な一神教の敬虔な信者にとって、神を否定することはたいへんな苦痛を伴うことなのかもしれない。

◾釈迦の主張は、ブラフマンはあってもいいが、それだけであるものとされる神は成り立たない、この世にアプリオリなものは何ひとつ存在しない、と徹底的に否定した。いってみれば、釈迦は、不完全性定理を主張したようなもの。
◾釈迦の教えのなかには、あらゆる宗教に内在する本質的な矛盾がない。それは「部分情報である人間に、なぜ完全情報のことがわかるのか」という問題。
バチカン法皇は自分が人間であり、すなわち部分情報であることを認めているにもかかわらず、神は完全情報だ、と主張。しかし、神でもない法皇に、なぜ神が神だとわかるのか。わかるわけがない。
つまり、神を語る人間は全員、嘘をついている。頭が悪いわけでなく、わかるはずのないものをわかると、確信犯で嘘をついている。
◾その点、釈迦は神を否定した結果、人々が神を必要とする理由を全部解決してしまった。完全情報への憧れには「完全情報はこの世にない」、死への恐怖には「死んだら、その怖がっている君はいないんだよ」。幻想からの解放、「未来も幻想、過去も幻想」。
◾インドでは、バラモン教は支配階層の宗教で、ヒンドゥー教は非支配階層のそれ。ヒンドゥー教は迷信の集まりのような宗教だが、バラモン教というバックボーンがある。
同様に、中国の儒教は、孔子を始祖とする支配階層の思想体系。対する道教は、老子荘子道家が体系化した宗教思想体系。道教は、儒教的な教義をもちつつ、そこに世俗のさまざまな迷信が集められている。
◾日本に伝わったのは仏教ではなく、道教化された仏教。
仏教に対する世界的なコンセンサスでは、オリジナルの正統な仏教をいまに伝えているのはチベット仏教であり、また釈迦の時代から南に伝わったオリジナルの仏教がパーリ語で現代までスリランカなどに伝わっている、という認識。
チベット仏教=半分、密教の部分は、正統な仏教ではなく、バラモン教もしくは元々チベットにあったボン教に由来するもの。バラモン教の特殊なワザが混入したタイムカプセルのようなものと認識すれば分かりやすい。
釈迦の教えの部分に世界の仏教学者は注目し、釈迦ではない部分に中沢新一オウム真理教が注目した。

◾宗教は、夢や希望を見失い、意欲をなくした人間を都合よく利用し動かすための最も簡便な方法。それがアメリカビジネスの現場で、組織をあげて導入されつつある。
◾戦費は、資本主義ではビジネスつまり売り上げになりますが、共産主義ではコストにしかならない。だから長い冷戦でアメリカ経済は潤い、ソ連は疲弊した。いずれにしても、資本主義こそが最善であるという価値観は疑ってかからなくてはならない。
◾資本主義であるかぎり人間の金銭欲が無限に拡大していくという幻想も、このさい捨ててしまいましょう。
中央銀行があり、準備預金制度があるから、実際に必要な量をはるかに超えてお金が増えていく。実際、にほんぎんこうであれば、理論上は預金準備の1000倍のお金を市中に流すことができる。
利子をなくして、お金が勝手に増えていく仕組みをなくしてしまえば、それが増えていく理由もなくなる。経済の拡大にともなって増えることはあっても、お金がお金を生むシステムを必死に支えなくてはならない理由は何もない。
◾あなたが神を信じるサイドに立ちつづけるならば重役コースで終わりますが、他人の価値観を捨て、自分の価値観で生きることを選択すれば、考えてもみないほど成功し、満足する将来の自分を手にいれることができるはず。