セクシーな数学

◾物理学において生じているランダム性、構造やパターンの欠如が、純粋数学においても生じているためではないか。
ある意味で、私の研究内容は、物理学からアイデアを得て、数学に適用しているのです。
◾ーーそれは、あなたが数学者にとって非常に理解しがたいものを示したからですか。つまり、何の理由もなく真となる算術的事実が存在すること、それは偶発的に真となっており、ランダムだということを示したからですか。
そうです。Ω(オメガ)と呼ぶ数を発見したのです。これは、数学的に完璧に定義されているのに、その具体的な桁の数字が絶対にわからないのです。
◾ところが、私の数の各桁の数字はある可能性と別の可能性との間で見事にバランスを保っていて、実際の値が絶対にわからないのです。
◾量子的な並列性
量子世界では、物理系は、同時にあらゆる可能時間進化をなしとげようとします。そのふるまいは、あらゆる可能な歴史を加え合わせたようなものです。
量子世界では、測定した最終結果はあらゆる可能性の和なのです。その可能性はお互いに建設的な方向にも破壊的な方向にも相互作用するのです。
量子コンピュータ
この量子並列性を使って同時に百万個もの計算を行なうことができるコンピューターを作ろうとしている。その一台で通常の百万台ものコンピューターを置きかえられる。
チューリングマシンが停止するかどうかをあらかじめ決定することが原理的に不可能だという「停止問題」は、ゲーデル不完全性定理の別解である。
◾そもそも、普通の日常生活では、「絶対的な真実」などは存在しない。
ゲーデルの定理、チューリングの研究、そして私の研究結果は、数学においても絶対的な真を知ることができないことを示している。
◾明確な数学的問題はすべて数学的証明によって明確な解を持つはずだと(ヒルベルト)。ゲーデルは、そうではないことを証明した。
しかし、これはもっと一般的な問題。宇宙は、物理的な宇宙だけでなく数学的経験の宇宙も含めて、理解可能なものでしょうか。これはより広範な問題。
これらすべては、人間精神によってどの程度に理解できるものでしょうか。ゲーデルの研究から、完全な理解は不可能なことがわかっている。しかし、どの程度理解可能かという感じをつかむ何らかの方法があるものでしょうか。それが、結局問題なのです。
チューリングは、コンピュータープログラムが停止するかどうか、実行をやめるかどうかを決定できるかと問いました。彼は、集合論に対するカントール対角線論法を用いて、コンピュータープログラムが停止するかどうかを決定する機械的手続きが存在しないことを証明しました。
さて、停止問題が決定不能というチューリングの定理に少々の変更を施すと、停止確率がアルゴリズム的にランダムである、すなわち、既約数学情報であるという私の結果が得られます。数学的なしゃれみたいなものです。
◾ですから、百年もたたないうちに、私たちははるかかなたに来たことになります。すなわち、ヒルベルトがすべての数学的問題は数学的推論によって決定的に解けるだろうと確信していたときから、どのような初等算術の有限個の公理集合も不完全であるというゲーデルの驚くべき発見へ、そして、新たな極地へ、推論がまったく無力であり、完全に関連性を失う算術分野にまで到達したのです。
◾最近では、この種の予測可能性の欠如は量子力学以外に広まってきている。古典物理学ニュートン物理学においてすら、予測不能性やランダム性が含まれている。
それは、非線形物理学、すなわち「決定的カオス」の分野。これは、わずかな変化が大きな効果を生むという状況で、非線形の状況で、天候のように非常に不安定な状況で生じる。
◾天候は、原則として、予測不能(キャスティ教授)。
◾ランダム性は、いまや、統合原則かのように見受けられる。
◾そのアイデアというのは、ほとんどの物事が私のランダム性という定義を満足するということ、ほとんどの数が私の意味ではランダムであるが、決してそれを証明できないということです。いいですか、ランダム性に対する定義がわかったのです。そして、このアイデアの意義は、推論が達成できる事柄に限界があるということを示したことなのです。
◾ーー情報、計算量、ランダム性は、第三千年紀の時代精神であると書いておられますね。
 この情報という単語は非常に示唆的だと思います。とてもセクシーな言葉。コンピューター革命の一部であり、ソフトウェアというアイデアの一部であり、分子における、物理的形態における生物情報であるDNAによる生物学の革命の一部でもあります。
 もう一つ啓発的だと思うのは、例のとんでもない考え、つまり、コンピューター技術は、人間の魂を扱うための技術と考えられるということです。ソフトウェアは魂のようなもの。計算機というのは、完成しても、死んだもの。しかし、それにソフトウェアを注入すると、生命を得るのです。しかも、このソフトウェアはマシンからマシンへと移すことができる。これはまるである肉体から肉体へと魂が渡されるようなものです。
◾もっとも深いレベルで、数学的な創造性は、芸術的な創造性と非常に近いもの。情熱が必要。非合理的なもの。直感を使う。霊感が必要。まったく非合理的なもの。
ノーレットランダーシュがその著『ユーザーイリュージョン』で指摘しているように、意識化の非合理的な心は、帯域幅の狭い意識の理性の心よりも、はるかに強力な情報処理能力を有しており、その意味ではより知的だとさえいえる。
◾数学は発明されるのか発見されるのか。どちらの観点も妥当であり、同じ主題を異なった観点から説明している。
◾「神は量子および古典物理学においてサイコロを振るだけでなく、算術においてすら、純粋数学においてすらサイコロを振っているのです」
◾停止問題の解決不能性についてのチューリングの基本定理は、コンピュータープログラムが停止するかどうかを決定する機械的手続きは存在しないというもの。
◾私の主張は、停止問題は決定不能であるというチューリングの結果は、停止確率がランダムである、すなわち、既約な数学情報であるという私の結果に相当するということです。言い換えれば、2を底とする実数Ωの各ビットは、独立な数学事象なのです。そのビットが0か1かを知ることは既約数学事象であり、それ以上圧縮、簡約できないのです。
これを技術的に述べると、停止確率はアルゴリズム的にランダムだということになります。コンピュータープログラムによって、この二進数実数のNビットを得るためには、少なくともそのプログラムがNビット長なければならないのです。これは、技術的な表現です。より単純に述べると、特定のNについてオメガのN番目のビットが0または1であるという言明、各ビットがどっちかを知ることは、既約独立な数学事象、ランダムな数学事象であり、コイン投げと同じだということです。
◾独立な公正なコイン投げのような完全なランダム性を得るには、「無限個の解があるのか、有限個の解なのか」と問う必要があるのです。
解がないなら有限個の解。問題はどちらなのかを知ること。私の主張は、決してわからないということ。
言い換えれば、それぞれの個別の場合について解の個数(自然数解、非負整数解の個数)が有限か無限かは、これ以上簡約できない既約な算術の数学的事実なのです。
◾したがって、コンピューターとウェブとを創造することによって、人類は、その意識の水準を高めて、この物理世界から抽象的なイデアプラトンの世界へと部分的に移動しているのです。
◾おそらく、これら両方の観点が、世界は物質からできている、と、世界はイデアからできている、とがともに真実なのでしょう。
おそらく、私たちこそは、物質が精神を創ろうという試みなのでしょう。
◾無限についてだけ困ったことになる。時間制限がなければ、本当に困ったことになることをチューリングは示した。これが停止問題。プログラムが停止するかどうかを前もって決定する方法がないこと。停止するなら走らせるだけで忍耐強ければ止まるのが発見できるが、問題は、いつ、止まらないと諦められるか。チューリングは、ちょうどカントール対角線論法に対応する非常に単純な議論でもって、この停止問題が解決できないことを示した。
◾そこで、興味深いことは、チューリングが、プログラムが停止するかどうかを前もって計算によって演繹する方法がないことから、そこから派生する系として、推論を用いて前もって演繹する方法もないと演繹したことです。どのような形式公理系もプログラムが停止するかどうかを前もって演繹することができないのです。
◾停止するプログラムを得るための必要十分条件は、それが停止しないこと。
◾私はランダム性について考え始めた。それこそ実際に働いているもの、それがこの不完全性すべてのより深い理由かもしれないと考え始めた(アルゴリズム情報理論)。
アルゴリズム情報理論
コンピュータープログラムのサイズ。一つの計算量尺度、一種の計算量。
エントロピーとプログラムサイズ計算量とは密接に関連。
◾このプログラムサイズというアイデアは、哲学的には反響が大きい。ランダム性、すなわち最大エントロピーをまったく圧縮できないものと定義できる。それは、基本的に、記述するための唯一の方法が、「これだよ」というしかないという特性を持った対象。なぜなら、何の構造もパターンないから。
◾ランダム=圧縮不能
◾プログラムサイズ計算量は計算できない。