無限論の教室

無限論の教室 (講談社現代新書)

無限論の教室 (講談社現代新書)

◾『実無限』と『可能無限』
『実無限』寄せ集め解釈、線分には無限個の点がすでに存在していると考える。無限のものがそこにあるのだと考える立場からとらえられた無限。
『可能無限』切り口解釈、あくまでも可能性としての無限しか考えず、線分を切断すれば点がいつまでも続けて取り出せ、その可能性こそが無限であり、その可能性だけが無限だと言う。可能性としてのみ考えられるとされる無限。
大理石を彫るみたいなもの。大理石の塊から彫刻を彫るとき、その彫刻はすでにその大理石のうちにあったのでしょうか。これはつまり、取り出すのではなく、作り出すわけですね。埋まっているものを拾いだすのではなく、作るのです。
◾次元の崩壊
直線と平面は濃度が同じ。一次元も二次元もないというわけです。一対一対応で集合を比較するというのは穏当な筋に思えたのですが、ひとたびその路線に入ると、こんな激烈な結果が待っていた。同じようにやれば二次元と三次元も濃度が等しいことが示せます。四次元だって、五次元だろうが三千次元だろうが同じ。一対一対応という基準の前には、次元の差異は崩れさってしまうのです。
◾一対一対応。
◾ベキ集合っていうのは、部分集合の集合で、部分集合っていうのは、ある対象の集まりをさらに細かくさまざまに概念化して分類すること。だから、ベキ集合はそうした概念化の可能性の全体というわけだ。
つまり、無限ていうのは、対象がたくさんあるということよりも、むしろそれを概念化して捉えるときに開けてくることなんだ。
目の前の対象を概念化するだけでなく、その概念をも対象化してそれをまた概念化する。そうしてカントールは思考の世界で無限の階段を孤独に登りつめてしまった。
◾『AかAではないかどちらかだ』=『排中律
『ハイチューリツ』。この、排中律が認められるか否かということは、その対象を実在のものとみなしているか実在せぬものとみなしているかの基準となります。そして、直感主義は、無限に対して非実在者としての態度をとり、その結果無限が関わる領域では排中律を拒否するのです。注意してほしいのですが、一般的に排中律を拒否するわけではありません。実在するもの、有限なものに対してはかまわない。だだ、無限ががからむと拒否します。
直感主義は無限を人間の思考の産物だと考えた。だから排中律は成り立たない(ブラウアー)。
ヒルベルトの公理系とは、何が何を意味するといったこと、それゆえ真理とか虚偽といったこととはいったん切り離された、内容をもたない記号計算のゲームなのです。
内容を切り捨てて形式だけを問題にするから『形式主義』。
形式主義というのは、形式化され鈍化された公理系とその無矛盾性·完全性を証明するメタ数学の二本立てを提唱するのです。そうすると、どうなるか。
排中律がよみがえるのです。
◾『ヒルベルト·プログラム』
形式主義の二本柱。無限集合論を形式的な公理系として整備すること。それに対して無矛盾性と完全性を有限の立場のメタ数学で証明する。
➡️ゲーデル不完全性定理で頓挫。

ゲーデル不完全性定理

第一不完全性定理ーー無矛盾で完全な自然数論の公理系を作ることはできない
第二不完全性定理ーー有限の立場のメタ数学では自然数論の無矛盾性は証明不可能

ゲーデルはガチガチの実在論者。ゲーデルにすれば、数学はいささかも無内容なゲームではなく、有限の立場からのメタ数学などもよけいなお世話。自然数論とは、実在論者にすれば、実在する数の世界の秩序を人間が部分的に記述したものにほかならない。それを公理系として一望のもとにおさめようなどとしても、不完全になるにきまっている。
『メタ数学を自然数論の中で表現できるのではないか』
みている自分(メタ数学)を見られた自分(自然数論)の中に埋め込む。
自然数論の対象は自然数、メタ数学の対象は自然数論の式·式変形·証明。扱う対象が違うため、メタ数学の表現を自然数論の公理系の式として翻訳する手引きが作られた(➡️『ゲーデル数化』)。そうすると、メタ数学における『証明できる/できない』という表現が、自然数論上の性質として翻訳されうることになる。
メタ数学を自然数論に翻訳すると、果てしなくメタに進んでいく自己運動みたいなものが生じる。
『自己言及的証明不可能性』
対角線論法。対角線上に自己言及文が並ぶ。それに「証明不可能」という概念をあてはめて文を作っていく。すると、その文が並ぶ横線と対角線の交点Gは、「証明不可能」という概念から成る自己言及文になる。つまり、「私は証明できない」。これがGだ。
肯定と否定が一致すると矛盾だけど、Gと『Gは証明できない』が一致すると、必ずしも矛盾ではなくて、こんどは不完全性がでてきてしまう、というわけだ。

G=「Gは証明できない」
➡️①真➡️主張のとおり➡️Gは証明できない
➡️②偽➡️主張は否定される➡️Gは証明できる

①は不完全(自然数論の公理系が真なのに証明できないものをもつ)。②は矛盾(Gは証明でき、かつ、証明できない)。無矛盾で完全な公理系の夢は、ここについえました(第一不完全性定理)。
背理法の過程として、自然数論の無矛盾性が証明できたと仮定すると②が消去される。完全で無矛盾な公理系は作れず、完全性か無矛盾性か、どっちかを諦めねばならない。不完全でもいいから無矛盾な公理系を作りたい➡️①。メタ数学において無矛盾性が証明されるということは、①が自然数論の中で定理として証明されることを意味。

G=『Gは証明できない』 が証明される
➡️Gが証明される

②と同じで、Gは証明され、かつ、証明できない、矛盾。
つまり、自然数論の無矛盾性が証明されたと仮定するならば、矛盾が導かれ、この仮定は却下。自然数論の無矛盾性を証明することはできない。きちんというならば、有限の立場のメタ数学では自然数論の無矛盾性を証明することは、不可能なのです(第二不完全性定理)。