日本陰陽道史話

 

日本陰陽道史話 (朝日カルチャーブックス)

日本陰陽道史話 (朝日カルチャーブックス)

 

 

 

日本陰陽道史話 (平凡社ライブラリー)

日本陰陽道史話 (平凡社ライブラリー)

 

陰陽道では六十年を一元、二十一元を一蔀(ぽ)とする単位をもうけている。

 

太子は憲法発布の歳を甲子革命の歳に求められます一方、推古天皇九年(六〇一)が辛酉に当たるところから、この歳を基準にそれよりは一蔀すなわち一二六〇年遡った歳を神武天皇即位元年、わが国建国の歳とされており、これによって現在みる『日本書紀』の年代の立て方も理解されるでありましょう。

 

□平安初頭の人命に注目すると、魚介関連が多いが、獣類をみると、十二支由来が多く、これは陰陽道思想の流布によるものと思われる。

 

北極星

そもそも日本人は星の信仰が稀薄であるといわれていますが、奈良時代には北辰信仰が都鄙(とひ)に流行しました。北辰すなわち北極星は中国では天の中枢にあって動かず、他の諸星を統御する貴い星で天下の興亡を司り、あらゆる不詳邪気をしりぞけ、長生を保たせる力があるとする讖緯(しんい)思想の流れをひき、陰陽道にとり入れられました。仏教では尊勝王とも妙見菩薩としても知られています。

 

元号は、祥瑞・災異改元が流行した時期があり、江戸時代には徳川家が実権を握っていた。

このようにして、陰陽道儒教の習合による王道政治・徳治政治と革命思想からなる中国の政治理念は、明治まで長い間わが国天皇制を支えるものとなったことがわかります。

 

道教陰陽道は中国の漢民族が生み出した思想・信仰の双璧。

陰陽道の方が森羅万象の中で根源的原理的なものを深く追究し、緻密な理論を導き出し、国家社会の動きを理解する上に各種の呪術や卜占を考案し、ひいてはこれを個人についても利用しましたのに対し、道教は人生の理想や願望に基づいて個人の生活や環境をこれに近づけるために、あらゆる自然の事物や呪術を駆使しました。

□思想的背景

陰陽道:大規模で哲理的なものを多く含み、一段と高度で歴史も古い。教団的宗教活動はなく、広範囲に慣習的常識的なものとして浸透。

道教陰陽道的思考によりどころを求めつつ、のちには仏教の形式をとりいれて、実践的な信条として利用しようとする性格を有す。それだけ無知な民衆を引き入れて教団的活動へと発展する結果をも生み出した。

□わが国では両者からみ合って、仏教の僧侶により伝えられることが多く、しかもそれらはわが伝統的な原始呪術信仰の基盤の上に展開したのでした。

 

□およそその道に練達する者は死中に生を求め、凶中に吉を得るのであると是雄を激賞しているのであります。

 

□要するに二人が主役を演じた保元・平治の乱は、公家の天下である古代から武家の天下である封建時代へと歴史的な大変革をもたらしましたが、それとともに陰陽道に溺れた政治家の輩出もこれを契機にあとを絶ったのでありました。

 

□『平家物語

平家の興亡は仏教・陰陽道の結合した歴史観の上に立って書かれていることを忘れてはなりません。事実、これが公家の新興武士平家に対する考え方を示すものでした。

 

修験道

元来、仙人とは道教の道士がめざす方術の達人。中国では密教にとり入れられ、呪術活動にすぐれた行者を仙人と呼ぶようになった。したがって、仙人の言葉=神仙(不老長寿)的なもの、密教的解脱的なものの二つのイメージが重なる。小角を優婆塞(うばそく)、半僧半俗の人物として『日本霊異記』が紹介しますのも、小角を仙人としてまつり上げる以上、当然のことであり、これは修験行者の、僧にして僧でない特異な性格を示したものにほかなりません。修験道そのものも、純粋密教側からは俗蜜と呼ばれています。

小角が密教的仙人はまつり上げられたのと反対に、一言主神は小角に使役される鬼神へと格下げになってゆきました。

南北朝、熊野、山岳信仰、山伏、法師陰陽師

 

□古代公家文化の残滓にすぎないように見られた陰陽道が、近代日本文化の形成に意外に大きな影響を及ぼしたことを、この際改めて考え直してみたいものです。