一神教と国家

イスラームは人の内心はわからないと考え、干渉しない。
自分の宗教が知られると身に危険が及ぶような場合には信仰を隠すことをタキーヤと言い、シーア派では命じられており、スンナ派でも許されています。内心の問題を神に委ねて詮索しようとしない、こういった柔軟性も千年以上にわたって他宗教が共存する中東アジアに根を張るイスラームの特徴の一つでしょう。
対し、キリスト教西欧文化は人間の内面に精神が、確固としてあると考え、重要視する文化。行為より信仰が義。イスラームでは、そもそも内面に最初から悪魔とか悪人とかいろんなものが入っている、それが当たり前と考える。
内面より行為という点ではユダヤ教もそうです。心は慈愛にあふれているけれど、貧者に何も差し出さない人間よりは、心は何を考えているかわからないけれど、貧者に食べ物を恵む人間の方を重くみます。その人が何であるかではなく、その人が何をなしたかに基づいて人間の価値は考量されるべきだ、というのはカール・マルクスの思想そのものですが、このきっぱりと内面を無視する態度はユダヤ教の系譜から生まれてきたものだと思います。
カトリックの告解制度は人の内面をあばき出し、支配していく、恐ろしい制度。キリスト教は人の心を他人が知り、支配可能と考える。イスラームでは罪はできるだけ人に言わず、あくまで神と自分の関係とする。
イスラームは他の土地を征服していく際、自分たちの宗教を信仰するようにとは、決して強要しなかったのです。おかげで民衆の反乱が殆ど起こらなかった。イスラームは相手の内面にはあまり興味を持たない。相手が攻撃してこない限り。
イスラームは、他者に対してはある意味政教分離的でもあって、宗教としての枠組みと法による枠組みは別ものと考えるのです。けっこう高度なグローバリゼーション。
・今進行中の「世界のグローバル化」なるものはアメリカ主導で、世界のフラット化・単一市場を目指すが、その完遂には理屈上、もう一つのすでに存在するグローバル共同体であるイスラーム共同体を破壊しなければならない。
グローバル共同体同士が激しいフリクションを起こすという歴史的文脈の読み方を、今回中田先生に教えていただきました。
・中田先生の考えるカリフ制イスラーム共同体は「弱い個体」をどう支援するか、「生身の人間ベース」。アメリカン・グローバニズムは「強い個体」しか生き残れない、「貨幣・市場ベース」。
・活動家たちは国際ネットワークを構築していく中で、「領域国民国家は領域国民国家システムというシステムの一部、構成要素であり、単独の一国で存在するものではなく、イスラームを真に実現するためには領域国民国家システム自体を否定する必要がある」との共通認識が徐々に成熟してきます。これが本書で触れてきたカリフ制再興運動の出自です。