若者よ、マルクスを読もう Ⅲ

若者よ、マルクスを読もうIII

若者よ、マルクスを読もうIII

レーニン『国家と革命』にはマルクスの国家論・革命論からの本質的な逸脱が。
平和的・民主的な人民の総意にもとづく革命を追求したにもかかわらす、マルクスがなぜ時に「独裁論者」「暴力革命論者」との中傷を受けることがあるのか。その大きな原因をレーニンがつくってしまった歴史があるわけです。
・「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である」
・ホームズ「遡及的推理」=ある出来事があったと聞くと、「次に何が起きるか」ではなく、「それが起きる前に何があったのか」を遡及的に知ろうとすること。「起きると予測されていたけれど、起きなかったこと」も含む。
マルクス等にとって、独立宣言が示した「民主共和国の思想」は、決して「否定されるべきブルジョア民主主義」などではなく、未来に引き継がれるべき貴重な財産とされたのです。これは、二〇世紀以後の歴史に登場した「社会主義」諸国とマルクスの思想の関係を見る時に、重要なポイントの一つとなるところです。
フルシチョフの秘密演説「個人崇拝とその諸結果について」(スターリンによる大テロルと個人専制体制の一端)を受けてゲーツは「自分自身をスターリン主義者と考えることはできない」「どうしてこんなに盲目的であったのか」「スターリンがそうだといったこと」を「マルクス=レーニン主義」だと考えてきたからだと自問自答し、「自分自身の頭で考えること」を学ばねばならないと発言します。
日本共産党は「五〇年問題」を総括する中で、どんな大国や党であっても海外からの干渉は許さない、どんな海外の運動・体制もモデルにせず、日本の条件に見合ったものを自らの手で作り上げていくという「自主独立」の立場を党全体で確認していました。以後、日本共産党ソ連からだけでなく、ソ連に追随する世界の共産党からも「異端者」と呼ばれることになりました。

・恐慌は資本主義の末期症状ではなく、資本主義経済にとっての日常の一コマ。マルクスの革命論は古いフランス革命型(「恐慌=革命」型)から、資本主義の構造的問題を転換するため多くの人の合意を形成していく「多数者革命」型に変化。政治への不満が強くとも、転換に必要な行動を組織する力がなければ状況の転換はない。
・社会全体の消費力に対する生産の相対的な過剰、この過剰生産にもとづく経済の破綻が資本主義のもとでの恐慌です。
・生産者と最終消費者の間に商業資本が入り込んだことで、生産と消費のバランスを調整する市場の機能が周期的に破綻。商業資本(今なら大型家電量販店)が生産者から商品を大量に買い取り、最終消費者に販売。そこに「架空の消費」が生まれ、資本間(生産者間・商業資本間)の競争も作用。莫大な在庫を抱えても、最終消費者の消費力には限りがあり、いずれかの商業資本が破綻。その瞬間に、生産には急ブレーキがかかり、生産の縮小が短期間に起こるわけです。
・過剰生産を促進した大きな要因として、マルクスは銀行資本の発展もあげる。それらの要素が重なって、資本主義は周期的な恐慌を回避できない構造となっている。こうした分析を、マルクスは世界最初の恐慌からわずか四〇年ほどのあいだになしとげました。
・リーマン・ショックは、土地価格上昇を前提とした不動産を貸し付けるサブプライム・ローンが土地価格下落により破綻したことに端を発した金融バブル恐慌。

・「理想の現実性」を担保しているのは、理想を語る人の心の中にある思いの厚みや確かさなのです。
・実感として受肉した理念しか現実を変えることはできない。
・理念を実感として受肉させること。これが何よりもまず日本国憲法に対する日本国民の正統的なアプローチではないかと僕は考えています。
・タルムードの解釈学。テクストに解釈者が自分の身体を与えることによって、枯れた植物に水を注いだ時のように、聖句は開き、意味が立ち上がってくる。これがユダヤ人たちのテクストについての取り組み方です。
・「朝には漁師、昼には狩り、夜には批評家として筆をとる」(「ドイツ・イデオロギーフォイエルバッハの章)。一人で「自給自足」できないと権力関係や搾取は避けられない。専門に特化した共同体のようなものがあると、その間で必ず貧富の差や権力関係、支配・被支配がでてきたりするのです。
・僕たちはマルクスを読んで、広々とした歴史的展望の中で、深い人間性理解に基づいて、複雑な事象を解明することのできる知性が存在するということを知ります。それはマルクスロールモデルにして自分自身を知的に成熟させてゆくということであって、「マルクス思想を使って」ということではありません。