武器としての「資本論」

◾明治時代になって政府が真っ先に行ったのが、身分制の廃止、そして土地の売買の自由化です。それまでの封建制において土地は基本的に売り買いできませんでした。➡️土地と人間の商品化、「商品による商品の生産」。
◾「富はどの時代にも、どの社会にも存在するが、その富が主に商品の形で現れる社会は資本主義社会だけなのだ」
◾二つの共同体の間、そこで商品は発生している
◾キャッシュレス化が進むということは、つまり、「金を使う」ことから匿名性が消えることなのです。これは「商品の世界の中に入れば自由になれる」という資本主義の大原則が崩れるということです。
◾なぜ労働力によって剰余価値が生産できるのか。それは「労働によって形成される価値が、労働力の価値よりも大きいから」です。
労働者が形成する価値>労働力の価値 (剰余価値の搾取)
労働力の使用価値>労働力の交換価値
◾「労働者の再生産に最低限必要な程度が労働力の交換価値になるのだ」
奴隷制➡️すべて主人のための労働(適当に手を抜こう)
◾「封建制では他人のための労働と自分のための労働が分かれている(月水金は自分の畑、火木土は領主の畑)」
◾「賃金労働にあっては、逆に剰余労働または不払労働さえも、支払労働として現われる。」
つまり資本家のための労働の部分まで、まるで労働者自身のための労働であるかのごとく錯覚されるわけです。本当は資本に奉仕しているのに、あたかも自分のために働いている気になってしまう。
資本制の特徴はこのように、必要労働と剰余労働が区別できないところにあるのです。そこから、資本のために生産性を上げているのに、自分のために生産性を上げているのだという錯覚も生じてきます。
◾工場法➡️「これをしなければ資本が搾取する相手である労働者がいなくなってしまうから、この法律が定められたのだ」。「働き方改革」も同じようなもの。労働者にこれ以上長時間労働を強いると、まず人口の再生産ができない。人口が減っていくばかりになれば、労働者もいなければ消費者もいないということになり、日本資本主義の未来には絶望しか残らない。それはまずいということで、基本的に財界、ブルジョアジーに依拠する自民党政権長時間労働禁止の旗を振ることになったわけです。
◾十九世紀の工場法を見れば、今回の「働き方改革」のような体制側による労働者の救済処置が今に始まったものではなく、昔からあったことがわかります。それは資本主義のある種の必然であって、あまりに搾取しすぎると、搾取する相手がいなくなってしまって、資本主義は成り立たなくなるのだということです。
剰余価値
①絶対的剰余価値➡️労働時間の延長から得る
②相対的贈与価値➡️必要労働時間の削減、生産力の増大から得る(8時間かかっていたのを6時間でやれるようにする)。
◾特別剰余価値「高まった生産力によって商品を廉売することによって得られる利益、イノベーションによって獲得される期限付きの剰余価値であり、ある商品の現在の社会的価値と未来の社会的価値との差異から生まれる」
剰余価値を求めることこそ「資本」の本質であり、その運動が「資本」そのものである。運動しないお金、増えるということをやめてしまったお金は、「資本」ではない。
◾労働者階級を富裕化して中流階級化するということが二〇世紀後半の資本主義の課題となり、相当程度実現された。労働者を単に搾取の対象ではなく、消費者としても扱っていこうという発想。フォーディズム
剰余価値の生産という観点から言えば「労働者階級を相対的剰余価値の生産に参加させる」、マルクス流に定義すれば「相対的剰余価値の生産への労働者階級の形式的包摂」。「資本が労働者を取り込んだ体制」。
◾ポスト·フォーディズム
新自由主義が目指したのが、過去に与えられた労働者の既得権益の剥奪です。さまざまな規制緩和などを通じて労働者の権益を取り上げ、労働分配率を下げることで、新たな剰余価値を生み出そうとしたのです。
◾私たちは資本制の中に生きているがゆえに、ひたすら生産力の向上を求められ、それに応え続けてきました。それにより物質的に豊かになったという面はあるにしても、反面ではそれによって私たちの労働の価値が下がり続け、同じ生活を送るためにますます長い時間、働かなければならなくなっています。
再現のない資本のこの要求を、どうやってコントロールしていけばよいのか。言い換えれば、どうやって生産の統制を行うのか(江戸時代のような封建社会では、生産力の増大を押さえるような統制がかかっていた)。
◾就職活動とは労働力商品の買い手を探すことです。
◾デヴィット·ハーヴェイ「新自由主義とは実は『上から下へ』の階級闘争なのだ」
◾「政治的社会と経済的社会が分離し、別物になることが、資本制社会の特徴である」
◾世の中では、「自分の労働者としての価値を高めたいのなら、スキルアップが必要です」ということになっています。しかし私が主張しているのは、「それは全然違う」ということです。そういう問題ではない。マルクスに立ち戻って言えば、スキルアップによって高まるのは労働力の使用価値の次元です。
◾それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。「私たちはもっと贅沢を享受していいのだ」と確信することです。贅沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格をもっているのです。しかし、ネオリベラリズムによって包摂され、それに慣らされている主体は、そのことを忘れてしまう。この忘却の強制こそ、ネオリベラリズムの最大の「達成」だったかもしれない。
新自由主義は単なる政治経済的なものなのではなく、文化になっているということを強調してきました。それは資本主義文化の最新段階なのです。その特徴は、人間の思考·感性に至るまでの全存在の資本のもとへの実質的包摂にあります。したがって、そこから我が身を引きはがすことが、資本主義に対する闘争の始まりであると見なさなければなりません。
マルクスは、資本主義においては商品の交換価値を実現し価値増殖を達成することが第一義的な重要性を持つので、使用価値に関しては独特の無関心が生ずる、ということを述べています。交換価値は量的なものであり使用価値は質的なものです。ゆえに、量は豊富になるけれど質は最低へと向かって行くというのは、資本主義の内在倫理からしてまことに必然的なことです。