善く死ぬための身体論

 

善く死ぬための身体論 (集英社新書)

善く死ぬための身体論 (集英社新書)

 

僕たちがこの本の中で提言しているのは、とりあえずは、もう少し前の時代の、人間が工業生産のメタファーで身体をとらえる習慣がなかった時代の「身体の潜在可能性に対して楽観的であること、予見不能な資源について開放的であること」です。たぶん、このやり方のほうが「次の時代」に適応する可能性は高いと思います。

 

「善く死ぬためには、生命力が高い必要がある」「健康で長生きすると死ぬ時、楽だから」

 

複雑さを処理する基本のマナーは「判断保留」。「それが何を意味するのかわからないものがある」ということを受け入れる。それができるのは人間だけ。老人になって衰えるのは、この中腰に耐える、非決定に耐える力。

老いるというのは自己複雑化の努力を放棄することだと僕は思います。

 

戦争は命懸け。人間が持っている、潜在的な能力は修羅場を経験すると、爆発的に開花するんだと思います。特に「敵と遭遇」した時に、どこにいて、何をすれば、生き延びられるかを直感的に知る力。

何か危険が切迫してくると、何らかの身体症状がある。退却、ルートを変える。そういうことで命が助かったということを体験してきた。生き死にがかかってますから、そういう話を聞いて、現代人のように「エビデンスを示してみろ」なんて野暮なことを言う人はいない。

 

多神教一神教

八百万の神々という考え方の中に、釈迦が来ても何が来ても、そこへ入れる椅子(スペース)があるということです。

「おまえたちの宗教はそうか。オレの宗教はこうだ。じゃ、一緒に並んで座ろうね」ということで広く浸透していく。習合というのは辺境(先が海だから逃げられない)で起きやすい現象なんだと思います。(ヒンドゥー教アイルランドケルト信仰)

一神教の文化圏を特徴づける地理的条件は「自然からの無償の贈与が期待できない」という点にある。草原と砂漠の広がる地域。領土拡大の際は、前の宗教の上に「上書きする」。

温帯モンスーン地域の神様はヒューマンフレンドリーで気前がいい。人間にじゃんじゃん贈与。植物相、動物相多様。自然の超越的な力の現れ方多様。神的なものが様々な形で顕現。様々な顔かたち、性格の神様として概念化。それをまとめて拝むのが多神教

 

昔の人が「神」と呼んでいたのは、実は集団的な経験知の蓄積という仮説。

ヨーガで瞑想、自分の中へ中へ、要するにデータベースを探っていくわけですね。一番必要なことは何でも自分の中にあるわけです。

瞑想能力は、要するに自分をどこかから俯瞰する能力。「宇宙いっぱいに自分の意識を広げる」。

 

小菅正三『次元と認識』(自費出版/1979)

 

ユダヤ教=議論大好き。それぞれが聖句や口伝の解釈を援用して延々激論。結論出さない。多義的な解釈。ラビたちの議論の記録が蓄積され、教典「タルムード」が成文化。「異端」の概念無し。

キリスト教=異論百出してまとまらなかった解釈をとりまとめて、「最終的かつ不可逆的な一義的な解」に決着させたいという人間の抑え難い欲求に応えて登場したと思われる。聖句の解釈決定、逆らう人は「異端」、排除。

多義的なユダヤ教は少数派であり、たとえ安全で健全でも「複雑な宗教」より、多少危険でも「シンプルな宗教」を人間は好む。

 

「自分はどうやって生きたいのか」

 

「解脱」、人間卒業、現世への執着から離れる。生きている間にやるべきことややりたいことをすべて終えて、未練が無くなれば、今この瞬間に死んでも悔いはないのです。だから死後のイメージを考える必要もないということです。

 

心身の不快というのは、この心身の不快を自分が「ノー」と言った瞬間にパッと切り替えられて、自分自身が自分の運命の主人であるという全能感があると、人間は不快に感じないというのを聞いた時に、「自分の運命を自分がコントロールできているかどうか」ということは、人間にとってはものすごく大きなことなんだなと思いました。

 

愉しいと思えば、その想いが増幅されるので、より愉しくなるのです。取り込む情報を増やすために「おもしろがる」。

 

出したものだけが自分のものになるんです。出力する時に入力したものが定着する。

 

多田先生「昔の侍は用事がないところに出かけなかった」。できるだけ人のたくさんいるところには行かないほうがいいです。行かなくてもいいところに行って、しなくてもいいことをして、それで命を落とす人が少なくないって、柳生宗矩(むねのり)も書いてますから。