常識的で何か問題でも?

 

源泉から流れ出るものに身を浸すためには心と身体を開放状態に置かねばならない。おのれの狭隘な枠組みを押し破って流れ込むものを、まっすぐに受け入れ、次世代へ伝える。

そんな作法を、私は多田先生について学び、それを基礎づける哲学をレヴィナスについて学んだ。師たちの教えは同じ一つの叡智の二つのかたちである、そう言葉にできるまで40年かかった。

 

悪は「身体性の欠如」から生まれる。生身の身体は手触りのよい衣服や美味の愉悦等五感の身体的感動を求めるが、預金残高やひれ伏す人間の数等への快楽は、脳内に宿る幻想である。自分のものであれ、他者のものであれ、生身の身体への気づかいを優先させる人間は、戦争を始めたり、宗教やイデオロギーに目を血走らせたりはしない。身体には節度があるが、幻想には節度がない。

 

今の日本でも、どういう状況になったら、上の指示や規則ではなく、おのれの直感に従うべきかについては何も教えていない。

生き延びるための知恵を教えていない。

 

人間が真に「道徳」的な問題に出会うのは、「上位者の間違った指示」「定められたルールを機械的に適用するとたいせつなものが損なわれる場合」である。上位者の指示に強い違和感を持ち身体が動かない。それが道徳的意識の芽生えである。アルベール・カミュ『反抗的人間』ではそれを「反抗」と呼び、「嫌なものは嫌だ」と抗命する直感のうちに道徳性の最初の、そして最後の拠点を求めた。

 

「大学の株式会社化」学長が社長、教職員が労働者、受験生が消費者、卒業生が商品という構図。

「大学は何のためにあるのか?」次世代を担う若者たちの知性的・感性的な成熟を支援するため。

今の教育行政が目指しているのは「能力は高いが低賃金で長時間労働できる労働者」と「定型的な消費欲望に駆動され、広告に煽られて商品を買う消費者」の大量生産。経済成長(短期目標)。「愚民化政策」のひとつの到達点。そこから受益する「エリート」は内輪で育成するから公教育はそこに配慮しなくてよい。それが「文系不要論」の本音だろう。「グローバル資本主義への過剰適応」。

 

悲しみは悲しみのままに保持し、人は悲しみのうちに立ち尽くしていなければならない。古代の聖賢はそう教えている。それこそが統治の要諦だからだと孟子は書いている。

 

知性の重要な働き「経験から学ぶ」、倫理「ひとたび口にした誓約は違えない」。現代日本は知性と倫理性にかつてなかったほど「安値」が打たれた時代。

 

本来自分に帰属すべきものを誰かが不当に所有しているので私にはそれを毀損する権利があるという考え方のことを私は「呪い」と呼んでいる。近年の政治的事件を見ていると、人々は「自己利益の追求」よりは「他者利益の毀損」を、「政治的理想の実現」よりは「政治的現実の破壊」を優先させているように私には見えるのである。

 

「すべての長期政権は必ず腐敗」自己評価が節度なく高まった指導者には「おべんちゃら」が正確な人物鑑定に、おもねる者が炯眼の士に思えてくる。逆に、批判的な者は嫉妬や憎悪で目が曇った奸臣愚物に見えてくる。このピットフォールを避け得た独裁者は過去にいない。

長期政権の没落は為政者の無能失策ではなく、彼を喜ばせる以外に能力のない人たちがいつの間にか統治機構の中枢ポストを占有することがもたらすのである。

 

独裁制はある日統治者が「今日から独裁制、反対者は投獄」というような分かりやすいかたちで始まるものではない。形式はあくまで民主的手続きを経て「圧倒的な民意の支持を得た」という口実の下に行われる。

 

忘れている人が多いが、独裁と民主制は相性が良い。立法府が見識と威信を失えば民主制は自動的に行政府独裁に移行する。議会が機能していないことを繰り返し誇示しているうちに、立憲民主主義は壊死するのだ。

 

入力と出力の間にシンプルな相関関係がある仕組みは「ペニー・ガム・システム」とも呼ばれます。ペニー硬貨を投じると必ずガムが出てくる自動販売機の仕組みです。「格付けシステム」。このシステムを現代人は偏愛しております。特に若い人たちにこの傾向が顕著である。