古武術の発見

◾武術というと、一般には剣道である、柔道であるというように、単純な区分けでしか理解されていないんですね。そこでわかりやすくこう説明することにしております。
「いまは、テレビの時代劇や時代ものの小説のなかにしか出てきませんが、昔の剣客というのは、剣をとっても棒を持っても、あるいは素手でも、その場の状況に応じて臨機応変に対応しますよね。武術とは、ほんらいそういうものだったと思うんです」と。
つまり、私としては、古伝の武術の原点に立ち返って、現実に有効な技なり術を追求しているわけです。だから私の場合、剣術も体術も、身体の使い方はまったく同じなんですね。
◾その「気」というのが、いま考えてみると、心、まあ脳の働きというんですが、そういうものを一般に指している。その上に「神」という字がついているんで、これは漠然としたものではなく意識的なものを指していると思うんです。意志なり身体の活動、ないしエネルギーなんかも同時に指している。その両方を合わせて神気という。
そして、その神気が『兵法家伝書』あたりですと中心です。「人を生かしめているのは人の神気」である。それは「身を裂きても、目には見えねど」と書いてある。「桜の木に花が咲くのも、木の神気のなせる業(わざ)であって、しかし、それは木を裂いても目には見えない」ということが、やはり書いてあります。
ああ、それは「年ごとに咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ花のありかは」という歌ですね。剣術や柔術の諸流に、極意を教える歌としてよく引用されています。
武術の要諦なんですね。僕は、これはひじょうに重要な指摘だと思います。つまりそこで、構造主義をとらないで、機能主義をとっているんですね。
◾術というのは、なんといっても相手が理解できないことができたほうが得なんです。術とは「矛盾を矛盾のまま扱うことだ」という言い方を私はするんですけれども、相手にとっても理解できないためには、敵を騙すにはまず味方からで、自分にとっても説明できないような動きであることがいちばんいい。でも、自分にとっても説明できない動きを、じゃあどうやって統御するんだ、ということですが、そのへんをなんとか具体的な技としてとらえようと目指しているのが術の世界だと思うんです。
◾『無門関』因果の法則の鉄鎖から自由になれるかについて「賽子の偶数奇数の目が同時に出たようなもので云々」。それを自分なりに「運命は初めから完璧に決まっていて、しかも自由だ」と解釈。アインシュタインに関する本のなかにあった、光は波であって、同時に粒子でもある、という自然の二重性の話とピッタリ重なりまして、それまでの鬱屈が嘘のようにスーッと消えていったんです。
◾日本刀の形は、なぜ変わらなかったのか
◾古刀に対する憧れ
◾人間の才能なりなんなりを計る外部の道具という観点から位置づけますと、けっきょく、刀がいちばんいい物差しだったということです。武器を固定しないで勝負させたら、たいていの場合、これはインチキしたほうが勝ちですからね。
◾私も、心法の剣から入っていって、今度は技法の剣のほうにいくわけですけど、どちらがいい悪いというより、事実を事実としてどうやってとらえていくかということに徹したいと思っております。
◾西洋のスポーツ=普遍性、社会的依存性少ない。日本の「道」=心情的な面に走りがち、社会的依存性強。どんなエピソードにも意味を見つけて、すばらしさを訴えていこうとする、客観性低い。
◾つまり、基本的に日本は、東のほうが貧乏で西のほうが豊かだったんですね。貧乏なところのほうが、そういった新しいやり方、あるいは官僚的な政治というものは敷きやすい。ご存じのように、共産主義国家というのは、どちらかというと貧しいところに発生してくるわけです。その豊かな西が、いってみれば貧乏な東の官僚制に押さえ込まれたのが江戸期だったのではないか、という見方です。
◾おそらく、名古屋あたりから信長とか秀吉、あるいは家康という人たちが出てきたのは、あれはちょうど西と東の真ん中ですから、東のやり方で西をまとめあげるという、いわばそういう実験にいちばんいい場所だったかもわからないですね。
◾自分でわかってない動きが、いちばん相手にわかんないんで(笑)
◾武術=必然性、身を守る、自分自身の問題、自分なりに満足があればいい。スポーツ=ルールを決めてそのなかでやる、いったんシラけたら終わり。
◾相手の知覚系をすり抜ける動きが術。
◾たとえば『兵法家伝書』のなかにも「心の置きどころ」というのがあって、「どこに置いてもいけない」とかいてある。ちょうどそれに近いことで、相手方が読めないような動きをするためには、なぜかわからないけれども、まだ私の頭のなかで答えが出てませんけれども、自分のほうの注意、意識をどこか特定の場所に置かないことという指摘がつねにされてきるわけです。
◾「心法の剣」と言われる無住心剣術の伝書なんかを読み直してみると、あれは、読み方によってはまったくの技術論でもあるんです。心の使い方というのが観念論、精神論ではなく、技術論として展開されていると思えるんですね。
◾「心をどこにも置かない」という状態になるためには、まず身体の在り方、身体の使い方自体が質的に転換したものでなければならないわけです。というか、そういう動きの感覚がわかってくれば「心の使い方」もおのずと付随して身についてくるということです。
◾私は、型というのは「癒着をはがすための基本動作」であると、わかりやすく言っております。つまり、ついいっしょに動いてしまう、日常的にパターン化した筋肉なり身体感覚のブロックをバラバラにするということです。
◾武術の場合は、いろんな筋肉とか、それに付随する感覚というのも、みんな団子みたいにくっついているのを、別々にむりやり引き離して、それぞれを独自に動かすことから始めなければいけません。
しかも、完全に別々に動いたらまた意味がないんであって、別々に動いていたら、有機的な関連もあるようにしていく。これが術だろうと思うんです。
◾それで甲野さんは、そういう円を基本とする動きよりも、井桁というか平行四辺形(井桁)を基本にした動きのほうが効率がいいとお考えになったわけですね。
◾そこで、ここからも比喩としてお聞きいただきたいんですけど、平行四辺形がつぶれるような形で力が伝わりますと、マジック·ハンドじゃないですけれども、先と元が同時に動くために、打ち、突きのようなスピードが要求される技についても、いわゆる円の動きよりはるかに効率がいいんです。
◾いくつか技をお見せしたんですけど、これはどう考えても、ファイトとか、根性とかで追いまくられて生まれるものではないですよね。
そうですね。根本的には合理性だと思います。ひじょうにはっきりした合理性です。
◾われわれが普通に運動しているときには、自然の入力がある。センサーと言ってもいいと思うんですが、筋の知覚、あるいは皮膚を含めて、さまざまな知覚から入力があります。
オート(小脳)とマニュアル(大脳)の例で言えば、それまでの知覚はオートですね。しかし、そういった入力をいったんどこかで切ってやる。つまり、知覚系そのものをマニュアルにするわけです。ほんらいならば無意識に通ってしまうところを意識化していくということですから、それは身体内知覚に関しても、別なトライアルをしているということになるはずです。
たとえば、ふつうは、「歩く」感覚というのがあって、その延長線上に「走る」にしても何にしてもある。それを切り替え、入力をどこかでいっぺんブロックして、大脳で意識化するという形にもってくるわけですね。ブロックしない場合は、ある特定の初めから決まったルートを通ってやっているんでしょうけれども、それを別なルートとして入れるということを、改めてやっているんだと思います。それは頭のなかの組み替えであって、それこそ、修行。
◾やっぱり意識的な操作を何回もくり返していって、覚えていっているんでしょうね。
そういうふうにしてオート化した技は、ふつうの人がいくらがんばってマニュアルのレベルでやろうとしても、絶対に無理ですよね。
ええ。それが習熟ということですからね。
◾マニュアルをうまくオート化するためには、マニュアルの段階で、まずしっかり頭をつかうことがだいじだと思います。というのは、一度まちがった型なりがオート化して身体に入ってしまうと、しまつが悪いんですね。
私も身体の使い方で、腰を反るのが日本武術の特色だと思い込んで二十年間やってきたんですけれど、井桁の術理を見つけてから、この反る腰の問題点に気づいて、いま訂正している最中なんです。しかし、二十年間しみついたものは、そうかんたんには抜けないですね。
だから、稽古はただがむしゃらにやってはいけないんで、自分のやっていることが正しい方向、有効な動きを生み出す方向に行っているかどうか、たえずフィード·バックして、チェックしていかなければいけないと思います。
いわゆる悪い癖がつく、というやつですね。
◾ヨガの場合は、ふつうだったら意識的には介入できない身体の恒常性というか自律性に、特殊な訓練によって意識が介入していくわけですね。いわば身体のオート的な部分のスイッチを切って、マニュアルに切り替えてしまうわけです。
たとえば、息を止めていれば苦しくなります。その苦しいという信号を意識的に操作してしまうわけですから、そのへんをたえず意識して見張ってないと、ちょっと危ないんですね。やりそこなうと、身体からどんどん自律性が失われていって、どうにも治らない病気になるという話を聞いたことがあります。もっとも、そこまでからだのオート機能にマニュアルが介入することはむろん容易ではないでしょうが。
◾人間の身体というのは訓練によって、あるていど自分の思いどおりに変えていけます。けっきょく、頭というか脳の使い方の話に戻ってしまうんですけれども。
◾つまり、「多方向異速度同時進行」ではないですけど、みなが自分のやりたいことを、ほんとうに自分のいちばん得意分野だけやっていて、それがバラバラではなく、結果としてひとつになっていくというのはひじょうに効率がいい。
◾「小成は大成を阻む最大の要素」
◾そもそも、身体を動かすとき、一般的な身体の使い方から見れば不自然と感じるようなさまざまな制限をくわえることによって加えることによって、普通では不可能な精妙な技の世界を手に入れようというのが、「型」による稽古の特色なんですが、現代では、日本の型文化の研究者でも、そうしたことに理解がない人が多いですね。型を単に手順とか礼法、習慣のようにしか考えていない。
◾ですから武術というのは、もともと常識的に考えたら不可能と思われる状況を想定して、それに対して、いかに常識の枠を超えて不可能を可能にするか、という工夫の集積ともいえるものなのです。
◾そう、その火事場力を意識下でコントロールしつつ使えるようにすることに術の意味があり、それを育てるために型があるともいえますね。
◾人間の動きに即して言えば、直立しているだけで自然と存在している体重がもたらす、いわゆる位置エネルギーがあります。この位置エネルギーによる身体の落下を、水鉄砲のように出口を狭く絞ってやれば、勢いよく飛び出すわけで、特別なことをしなくても自然とそこに存在しているエネルギーを、状況に応じて効率よく取り出すシステムを体内感覚でつくってやればいいのです。
◾アソビをとった身体にブレーキをかけることで、一気に威力ある力を取り出す。
◾別のたとえでいうと、水をタップリ含んだスポンジを金網にぶつけると、スポンジはそこで止まって、スポンジが吸っていた水は金網の向こうへ飛び出すようなものです。つまり、スポンジを身体という容器、水をエネルギーと考えるわけです。