国体論 菊と星条旗

◾ゆえにわれわれは、一個の逆説に直面している。
今上天皇による象徴天皇制を何としても守らなければならないという訴えは、一方で、敗戦を契機としてアメリカの介入のもとに制度化されたものを守るべきだという訴えである。
◾そして、このような情勢のなかで、日本の近代は一五〇歳(二〇一八年は明治維新から一五〇年にあたる)を迎えた。しかし、節目という意味では、二〇二二年がもっと重大な意義を帯びる。というのは、その年を迎えると、「戦前」(明治維新から敗戦まで)と「戦後」(敗戦から現在まで)の時間が等しくなる(ともに七七年間となる)のである。
◾豊下いわく、「天皇にとって安保体制こそが戦後の『国体』として位置づけられたはずなのである」。
「戦後の『国体』としての永続敗戦」
明治維新を始発点として成立した「国体」は、さまざまな側面で発展を遂げたが、昭和の時代に行き詰まりを迎え、第二次世界大戦での敗北によって崩壊した。
そして戦後、「国体」は表向きは否定されたが、日米関係のなかに再構築された。その「戦後の国体」に、「戦前の国体」の成立から崩壊までと等しい長さの時間(七七年間)が流れようとしているなかで、崩壊の局面に差し掛かっているわけである。
◾ゆえに、国体論は、「国体と政体の区別」という観念を即座に持ち込まざるを得ない。すなわち、時代によって支配統治の政治的形態(政体)は変化するが、政治の次元を超越した権威者として天皇は常に変わらず君臨してきた(国体)という秩序観である。言葉を換えれば、実質的「権力」(政体)と精神的「権威」(国体)が分かれてある、ということだ。この考え方は、近代の国体の最大の危機(=敗戦と占領支配·属国化)において、やがて巨大な役割を果たすこととなる。
明治憲法の二面性。天皇は神聖皇帝か、立憲君主か。明治憲法ジームは、エリート向けには立憲君主制として現れ、大衆向けには神権政治体制として現れたのであり、前者は明治憲法密教的側面、後者は顕教的側面としてそれぞれ機能した。そして、昭和の軍国主義ファシズム体制の出現とは、後者が前者を呑み込んでしまった事態であった。
憲法とは権力への制約である」という基本命題を、このレジームは国民大衆に対してひた隠しにしただけでなく、レジームの運用者たるパワー·エリートたちがこの点を曖昧にする(あるいは無理解である)ことによって政争を闘ったのである。
◾要するに、露骨な言い方をするならば、戦後日本にアメリカにとって都合のよいように民主主義モドキの体制をつくるためには、天皇が必要だったので、天皇は無罪であるということにした、ということだ。
小泉八雲に傾倒する日本通であったフェラーズにとってさえ、天皇制の存続それ自体はどうでもよい事柄であった。それは円滑な占領のために必要だったのである。
◾してみれば、表面上の敬意と愛情と、その真の動機としての軽蔑·偏見·嫌悪を日米が相互に投射するという過程が、「天皇制民主主義」の成立過程の本質であった。➡️「国体護持」そのもの。
天皇にせよ日本政府にせよ、はたまた日本国民にせよ、その国家統治のけんげんはGHQに「隷属する」という命題が、ポツダム宣言受諾の意味するところであった。したがって、「主権の所在」を焦点とする国体護持論争は、そもそも存在しないものの位置取りをめぐって争う不条理な論争である、と結論されざるを得ない。
サンフランシスコ講和条約·日米安保条約「我々がのぞむだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」。第二次世界大戦後の国際政治の根本秩序は、東西二大陣営の対立によって形づくられ、ほとんどの国家が米ソいずれかへの恒常的な依存·従属状態を強いられることとなったのだから、かかる実質的な「主権の制限」は、ある意味では必然的なことであった。
◾つまり、ひとことでいえば、ポツダム宣言受諾から占領、サンフランシスコ講和条約日米安保条約を通じて、主権の放棄と引き換えに、国体護持が得られたのである。
◾東西対立の激化、逆コース政策への転換、共産主義の脅威の増大とともに、天皇の国体護持への意思は、日米安保体制構築への意思となって現れる。
◾「天皇制の存続」は憲法九条による絶対的な平和主義を必要としたが、他方で、その同じ「天皇制の存続」は日米安保体制を、すなわち世界で最も強力かつ間断なく戦争を続けている軍隊が「平和国家」の領土に恒久的に駐留し続けることを必要とした。この矛盾に蓋をする役割を押しつけられたのが沖縄である。
日米安保体制(戦後の国体の基礎)=天皇制の存続·平和憲法·沖縄の犠牲化の三位一体。
◾なぜなら、湛山が模索したような、敗戦にもかかわらず従属を拒んで独立を追求することのリスクーーそれは、先に述べたように、本土決戦をやり直すリスクを意味するーーを回避しつつ、完全なる属国としてアメリカの要求に従い同盟国として血を流さねばならなくなるリスクもまた、回避されるからである。
◾「敗戦の否認」に基づく「戦後の国体」の形成と発展とは、まさにこの「おとしまえをつける」ことから逃避することにほかならない。
◾その二重性とは、ほからなぬ本書で論じてきた、明治憲法における「天皇機関説の国体」と「天皇主観説の国体」である。前者は、国家を機構的側面からとらえることによって見いだされるのに対して、後者は、三島の言葉では「道義国家としての擬制」である。
久野·鶴見は、前者を大日本帝国のエリート向けの「密教」、後者を大衆向けの「顕教」と呼んだ。明治憲法ジームはこの二重性の絶妙なバランスの上に成り立っていたのだが、世界恐慌や対外危機といった社会的緒矛盾が昴進するなかで顕教(「天皇主権説の国体」)が密教(「天皇機関説明の国体」)を圧服するのであり、統帥権干犯問題から天皇機関説事件、国体明徴声明へと至る流れは、その過程を表現している。
その結果、あらためて神聖化された国体は、「道義」のなにおいて(大東亜共栄圏、八紘一宇)、無謀きわまる戦争を決行し破滅する。
◾TPP交渉の過程で明らかになったように、日米構造協議において発明された「非関税障壁」の概念は肥大化し、「グローバル企業が拡大展開する際に障害になりうるすべての事象」を意味するようになってきている。つまり、国民生活の安定や安全に寄与するための規制や制度すべてが、論理上、この「障壁」にカテゴライズされうるのである。
◾そして、脱対米従属を志向した鳩山民主党政権の成立は、その過程における例外的な事例であったが、結果としてそれは、対米従属をこれまでになく露骨に強化する激しい反動を呼び起こすこととなった。
◾すなわち、欧米人の仲間入りをしたいというコンプレックス、そしてアジアにおいては自分たちだけが近代人なのだという差別感情を上手く活用すれば、日本人はアメリカに従属する一方、アジアで孤立し続けるだろう、とダレスは見通していた。
◾したがって、結局のところ、アメリカが戦後日本人に与えた政治的イデオロギーの核心は、自由主義でも民主主義でもなく、「他のアジア人を差別する権利」にほかならなかった。
◾われわれはすでに十分に、米軍の共犯者である。つまり、憲法九条は現実にわれわれを平和主義者にはしていない。
また、憲法論の次元で言えば、矛盾の根本があるのは憲法の条文と自衛隊の存在との間にではなく、憲法日米安保体制との間である。前者の矛盾は後者の派生物にすぎない。
◾つまり、戦後日本が憲法九条を持つ「平和国家」であるということとアメリカの戦争への世界最大の協力者であるということが、矛盾であるとは認識されず、奇妙な共存を続けてきたのである。