若者よ、マルクスを読もう

若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)

若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)

宗教はこの社会での不幸を、天上での「幻想的幸福」にすりかえる「民衆のアヘン」としての役割を果たしているが、そのアヘンを捨てて生きていくためには、民衆はいま生きている社会の改革に向かわねばならないというわけです。
マルクスは、フォイエルバッハの意義を、現世の諸問題の解決を、神や来世に託すことなく、現世の社会関係(人間関係)の改革をつうじて解決していくという、唯物論的な社会変革論の地平を切り開いたところに見たのです。

マルクスが理想とするコミューン主義社会➡「個と類との争い」の解決=「私人」と「公民」の対立の解決。自分の自然な欲求を満たすふるまいが、そのまま公共の福利にかなっている、そういう状態になる。
論語にいう「心の欲するところに従って、矩(のり)を超えず」の境地。人間がどれほど奔放な欲望を抱こうとも、他者と自然との共生の理のうちに収まることを人間的成熟の目標に掲げる点では、マルクス孔子もそれほど違うことを言っているわけではない(と思います)。

■『ドイツ・イデオロギー
共産主義は、われわれにとって、つくりだされるべき状態、現実がしたがわなければならない『であろう』理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、現在の状態を破棄する現実的運動である。この運動の諸条件は、いま現存する前提から生じる」
共産主義は、理想の国(ユートピア)の手前勝手な設計図から生まれるものではなく、資本主義がもつ問題をひとつひとつ解決していったその先に、結果として形をさだめるものとなるーーこの斬新な発想は、後々まで、マルクスの革命論や未来社会論の重要な柱となっていきます。未来は、いまある社会の内から生まれ出る。
革命は、「自然成長的」に発展してきた「生産諸力」を「意識的に支配」していくこと。革命にいたる社会の衝突は、いつでも生産力と交通形態の矛盾に「起源」をもち、思想や政治分野の戦いなど「副次的形態」をとった。
「支配階級の諸思想=支配的諸思想」。ただし、時代の思想はいつでも、正しいからこそ支配的になる、という外観をまとう。「あたかも支配的諸思想が支配的階級の諸思想ではなく、この階級の力とは異なる力をもっているかのような外観」が生まれる。社会改革には、その外観をはぎとる独自の取り組みーー思想の分野での戦いーーが避けられない。
物質的・精神的生活の関係➡「生活が意識を規定する」。

「つくりもの」=「イデオロギー」。「額縁をつける」=「イデオロギー批判」。額縁とは人々を解釈に誘う装置。『ドイツ・イデオロギー』は「イデオロギーを批判するとはどういうことか」について書かれた本。読み出すべきは、マルクスが彼の同時代の風景に広がる「あたかも自然物のように映現するものたち」「地に融け込んでしまっているもの」をよりわけて、「額縁をつける」その手際である。

「なにものであるか」ではなく「なにをするか」。根が悪でも善行をすれば善人。根が善良でも悪行をすれば悪人。自分を善良と思い込む人の方が、何をしても「自分は高潔」という自己規定は揺るがず、悪行を躊躇わない。
「脳」と「身体」。イデオロギーは「脳的」現象。間違ってはいないが、生身の人間には完遂は不可能。マルクスイデオロギー批判というのは、イデオロギーの適切性は生身の人間に即して検証されなければならないという考え方のこと。