生きる技法

◾「自立とは、依存する相手が増えることである(中村尚司)」
依存する相手が増えるとき、人はより自立する。依存する相手が減るとき、人はより従属する。従属とは依存できないこと。もしあなたが、人に助けてもらうことはいけないことであり、自分で何とかしなきゃ、と思って抱え込んでしまう人であるなら、その考えこそが、あなたを人に従属させている原因だとご理解ください。もちろん、何でもかんでも人に頼ろうとして、人が助けてくれないと、当たり散らすような人は、未熟なだけです。しかし、自分が困っているときに、助けを求めることができないこともまた、未熟さの反映なのです。てすからこの場合、助けてください、と言えたとき、あなたは自立している、ということになります。
◾自立した人というのは、自分で何でもする人ではなく、自分が困ったらいつでも誰かに助けてもらえる人であり、そういった関係性のマネジメントに長けている人のことだ、ということに気づきました。そういった関係性の構築は、貨幣を用いても、用いなくても(無所有戦略)可能です。

◾友だちとは、互いに人間として尊重しあう関係にある人のことである。それは、お互いの真の姿を常に探求し、勝手な像を押し付けない、ということ。
◾「友だちじゃないか」といわれたりしたら、早速、絶交した方が安全でしょう。なぜなら「友だち」というレッテルを貼ってくること自体が、その人が友だちではないことを意味しているからです。その人は、何らかの意味で、あなたを利用しようとしているだけです。
◾誰とでも仲良くしてはいけない。世の中には、押し付けをしてくる人がたくさん。誰とでも仲良く=押し付けをしてくる人とも、ちゃんと付き合うことを意味。
◾押し付けをしてくる人は、あなたを利用しようと「友だちじゃないか」「きみはこういう人だろ」「きみは○○といったじゃないか」といった手段により、あなたに罪悪感を感じさせて、自分に都合のよいことをさせる。そうすると一歩一歩、あなたの時間や能力や友人関係やお金や容姿など、あなたの生きるための資源を勝手に使われることになる。
◾あなたを尊重する人は、あなたが嫌だと思っていることをさせたりはしない。その結果、誰とでも仲良くしようとすると、押し付けをしてくる人と付き合う頻度が高くなり、あなたを尊重する人との付き合いは薄くなる。そうすると、あなたを尊重する人は、「この人は、あの嫌な感じの人と付き合いたいのであって、私とは付き合う気はないんだな、じゃあ、どうぞお好きに」と思って、黙ってあなたとの付き合いをやめてしまう。そうしていつの間にか、あなたの周囲には、あなたに押し付けをする人しか残らなくなる。
◾それゆえ、誰とでも仲良くしようとすると、誰とも仲良くなれない、ということになる。
◾受け入れられた経験を持たない人は、他人に対して像を押し付ける以外の方法を知らない。出会った人の実像をありのままに捉えるのではなく、その人を自分が勝手に用意した分類表のどこかに適当に押し込めて、理解したことにしてしまう。そして、自分の都合のよい像を他人に押し付けあうことこそが、人間関係の本質だ、と考えている。「破壊的構え」。
◾誰とでも仲良くすると、あなたも破壊的構えに吸い寄せられる。支配ー被支配の連鎖に取り込まれる。破壊的構えに近づいてはいけない。創造的構えに近づくべきである。
◾嫌だと感じる人と、友だちのフリをしてはいけない。適当に距離をとり、不愉快な押し付けには、断固として抗議しはねつける勇気は必要。我慢すると「友だちのフリ」をさせられることになり、それは、あなたの大切な友だちのネットワークをあっという間に汚染してしまう。表面的な平穏さは毒、表面的な対立は、動的な調和をもたらす。相手の破壊的構えのお付き合いをしてはならず、創造的構えに呼びかけねばならない。

◾自愛が自分自身を受け入れ、大切にすることであるのと逆に、自己愛は、自己嫌悪から生じる。自己嫌悪とは、自分自身を自分自身としてそのまま受け入れることができない状態。そして、自分のあるべき姿を思い描き、自分がそれとズレていることに嫌悪感や罪悪感を抱く。
これはその人が勝手にやっていることではない。自分とは異なる像を自分の像として、誰かに押し付けられていることから生じる。その上、その押し付けられているという事実を自ら隠蔽。こうやって押し付けられた像があるべき姿となり、それとズレた自分の姿を嫌うのが自己嫌悪。
◾自己愛とは、自己嫌悪を埋め合わせるために偽装すること(ブランド品)。自己愛を満足させるために、他人の美点に欲情することが、執着。執着する者は、決して対象となる人の真の姿を見ようとはしない。
◾執着する者が見ようとするのは、自分に都合のよいスペックだけ。その美点を自発的に捧げてくれることを、勝手に妄想している。そのような妄想を勝手に押し付け、その前提で行為。それで相手が苦しもうがなにをしようが、一切気にしない。そして相手がその妄想に一致していないなら、その部分を無視するか、攻撃する。また、その対象を排他的に独占しようとする。自分を嫌っているなら、誰も愛することはできない。
◾自己愛は、他人を犠牲にする。自分を嫌っている人が、その苦しみから逃れるべく、自己像を偽造するために、必要な資源を、他人から奪う。
◾自分を大切にし、そこからあふれる愛情に引き寄せられるのが、本当の友だち。愛情で結ばれている人々は、結果として相互に利益を与え合うことになる。それはあくまでも、互いに喜んで援助を与え合うことの結果に過ぎない。

◾貨幣は、信頼関係なしの交換を可能にする。副作用➡️貨幣さえあれば、信頼関係などなくとも、生きていける。
◾間違った考え=自立するとは、他人に依存しないことであり、他人に依存しないためには、お金を手に入れればよい。
◾自立は、金では買えない。貨幣は他人との信頼関係を作り出すために使うべき。
◾貨幣は他人とのしがらみを断ち切るために使える。

◾つまり、人が欲しがる貨幣や地位を持っていれば、それを羨み、欲しがる人の心を利用して、その人が持っているものを手に入れることができるが、学歴がその一歩。しかし、地位が高くとも、「死」「愛」「友情」「尊敬」などはお金と同様、それだけではどうしようもない。地位が高いと失うものがたくさんあるのも、お金と同じ。地位の上下に神経を使う、執着心の塊のようの人が群がってきて沢山の腐れ縁ができる、そのメンテナンスに貴重な時間を取られる、軽い犯罪で捕まったら破滅、など失う自由も大きい。
◾自由とは、選択の自由のことではない。「選択肢が豊富にあること=自由」ではない。成功とは、可能な選択肢の中から、最善の選択をすることではない。
◾選択を迫られるなら、その場を逃げ出すべきである。
◾豊かさは自由を保証しない。
◾自由でいるためには、勇気が必要である。
◾「人生の目的」を記述可能で認識可能なものだと思い込むことから、抜け出す。そのように、何か言語化できるものとして、人生の目的を設定してしまうということは、自分の感覚を裏切る第一歩。「人生の目的はあるのだけど、それは見えない」。あなたの人生の目的は、ほかの誰とも違っている。これが究極的な意味での「個性」。
◾人生の目的は、どんな言葉でも表現することはできない。高邁な目的も、記述できるということ、それ自体でもはや危険。表現できたと思うなら、それは何かを押し付けられた結果に過ぎない。自由の喪失。人生の目的に向かって進んでいるかどうかは、感じることができる。=自由。

◾「星の銀貨」実験のハイデマリー·シュベルマーさん。「宇宙に注文を出す」、念力、必要なものを具体的に想像できると、手に入る。
◾夢をしっかり見れば必ず手に入る。
◾夢は否定形では表現されない。
◾否定形を夢だと思い込むと、否定の部分が外れて実現する。例えば、「父親のようになりたくない」と念じると、父親のようになってしまう。夢は肯定形のイメージでしか表現できない。具体的にイメージできるのは肯定形だけ。「父親のようになった自分」は想像できるが、「父親のようにはなっていない自分」というのは想像できない。
◾夢を実現することそのものには、何の意味もなく、その過程で得られる副産物に意味があり、あなたの糧となる。成長、人との出会い。そのような過程で出会う人こそが、真の友だち。
◾そうやって、夢を描きつつしっかり歩むならば、その夢は実現しないとしても、その過程で得られることによって、あなたは次の夢を見ることができる。そのような、夢の渡り歩きこそが、あなたの「道」。
◾人間は自信を持ち、自らの精神を自由に広げるときにのみ、なにか本当に意味のあるものを生み出す。現代社会の問題は、価値の基準が狂ってしまっていて、そういう価値を価値と認められないことにある。その代わり、「才能ある子」が焦燥感に駆られて吐き出したものを賞賛するようになっている。こういう子の問題点は、その見る「夢」が、文字化しうることにある。❌「合格する」「賞を受賞する」⭕「合格して幸福に暮らす私」「賞を受賞して喜ぶ私」
◾抽象的な「夢」は、かなえるとすぐに消えてしまう。
◾幸福とは、手に入れるものではなく、感じるものである。
◾「才能ある子」を育てるには、その子の感覚を否定して、大人にとって、社会にとって好都合な感覚を押し付ける必要がある。「アメとムチ」。怯えさせ、利益で釣る。そうやって子どもを徹底的に仕込めば、「芸」をするようになる。そうやって芸を飲み込む回路を鍛えるのが、「才能ある子」を創りだす親。愛情が欠如していて、それにも拘わらず、自分がこの子を愛している〈はずだ〉と思い込む強い力を持った親が、「才能ある子」を育てる。夜叉のような心を持つ者にしかできないこと。
◾「優れた」夜叉親は、こういった「正しい」意味の押し付けを、心の底からの衝動に任せて、子どもに強制できる。こどもの魂の作動を否定し、「あるべき」姿を押し付けることに快感を覚えないと、長続きしない。「正しく」狂った親にしかできず、そうしてはじめて「正しく」狂った人間が形成される。「正しく」狂った人間は、感じることを恐怖するため、幸福にはなれず、幸福の偽装工作に全力を挙げる。世間的には、「幸福の偽装工作」こそが「幸福」だ、というキャンペーンが常時行われており、それに乗せられることは、非常に危険だと知るべき。
◾幸福とは、感じるものであって、なにを手に入れても、そこから喜びを直接感じられなければ、意味がない。たとえ良い大学に入っても、そこにいることに幸せを感じられなければ駄目。羨ましがられたり、褒められたりすることで、間接的に感じても、それは幸福の偽装工作に過ぎない。
◾悪い予感がする場合には、たとえ眼に見えるものが短期的にせよ、長期的にせよ良いものだとしても、永年の憧れであったとしても、決して近寄ってはいけない。
◾「夢」というものは、幸福へと至るための「手掛かり」として、意味があるのであって、その実現そのものには意味がない。夢はしっかりと見るに限る。そうすれば自ずとあなたは、幸福に向かって連れて行かれる。

◾夢は自愛、憧れは自己嫌悪に発する。憧れ「いるところを離れてふらふらさまよう(平家物語)」「気が気でなくなる(明治/二葉亭四迷)」。
◾「自分は悪い子だ」と思い込まされていることが、自己嫌悪である。
◾自己嫌悪を抱いている限り、失敗が約束されている。
◾あなたを操作して利用する人は、あなたの自己嫌悪を利用する。あなたが自己嫌悪を乗り越えようとすると、憤激して妨害する人は、あなたを利用している人である。
◾自己嫌悪とは態度。その態度を改めれば、自己嫌悪は雲散霧消する。
◾自己嫌悪を乗り越え、自分を愛するようになることが、成長をもたらす。
この世界は、人間が、自分を愛し、その愛の力で盲点を次々と乗り越え、溌剌として生きる、そういう世界。そこには友だちしかいない。そうでない人は、皆、以前、あなたの住んでいた、自己嫌悪ワールドの住人。
◾自己嫌悪こそが、破壊と破滅と失敗と不安と恐怖との原因。自己嫌悪に振り回されている人は、自分の「評価」を上げることに血眼。「理想の自己像」を設定して、それに「憧れ」、その実現のために必死の努力をする。そうして、大嫌いな自分自身ではなく、大好きな自分の見せかけを作り出そうとする。それに成功した、と思っている人は、その見せかけのために何でもするようになる。
◾見せかけの自分のために何でもする者は、利己主義者あるいは利他主義者になる。前者は見せかけの自分の物的利益の獲得に奔走し、世間の評判を顧みない者。後者は見せかけの自分の世間の評判の獲得に奔走し、物的利益を顧みない者。

◾成長とは、生きる力の増大。身体の成長が止まっても、知識や判断力は経験·読書·討論により成長可能。身体や知能が成長しなくても、「友だち」をつくる、子どもと深い関係を創りだして「友だち」になる、子供が友だちをつくり、子供が子供を産むことで、自分を支えてくれるネットワークが自動的に強化される。
◾成長は、願うことで実現される。

◾関連書籍
自己増殖する「東大話法」ーー原発事故と言葉の空転
今を生きる親鸞
経済学の船出ーー創発の海へ
生きるための経済学
複雑さを生きるーーやわらかな制御

◾仏教の教えの根幹は、「縁起」という概念だが、それは、ここに何かが「ある」というのは、そこに何らかの「実体」が独立不羈(ふき)に存在しているのではなく、世界を織り成す因果関係の複雑な網目の中で「成っている」にほかならないのだ、ということかと思う。小島=中村の原理は、この縁起思想からすれば、ごく自然な考え方。日本でこの原理が発見された理由は、やはり仏教の影響抜きには考えられない。