ノイマン・ゲーデル・チューリング

ノイマン・ゲーデル・チューリング (筑摩選書)

ノイマン・ゲーデル・チューリング (筑摩選書)

  • 作者:高橋 昌一郎
  • 発売日: 2014/10/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
◾このゲーデルの「数学的実在論」に真っ向から対立して、ノイマンは、「あらゆる人間の経験から切り離したところに、数学的厳密性という絶対的な概念が不動の前提として存在するとは、とても考えられない」と述べている。ノイマンは、あくまで人間の経験と切り離せない数学という、一種の「数学的経験論」を主張しているわけである。
ゲーデル数学基礎論における幾つかの基本的定理とその帰結」
私が信じている真理とは、それ自体の客観的実在の概念であり、人間が生みだすことも変化させることもできず、ただ知覚することや記述することのみができる概念なのです。
ここで私は、意図的に二つの分かれた世界(物事の世界と概念の世界)についてはなしましたが、それは私がアリストテレス実在論(この考え方によれば、概念は物事の部分あるいは一面とみなされます)を擁護できるとは考えないからです。
それによって私は、数学が、非観念的な実在を記述するものであり、それは人間精神の行為や心理的傾向から独立して存在し、おそらく非常に不完全にのみ人間精神によって知覚されるという見解を意味しています。
ゲーデルの最終的な哲学的帰結
帰結5 人間精神は、脳の機能に還元できない。(反機械論)
帰結6 数学的対象は、人間精神から独立して存在する。(数学的実在論)
選言B 帰結5または帰結6、またはその両方が正しい。(いずれを選んでも唯物論は反証される)
◾しかし、バベッジの機械は電気的ではなく、すべてのデジタル計算機が同等であることを考えれば、電気的であることが本質的に重要ではないことがわかるだろう。
◾学習過程とは、教師(あるいは何らかの基準)を満たすような行動の形式を見出すことなのかもしれない。

無限論の教室

無限論の教室 (講談社現代新書)

無限論の教室 (講談社現代新書)

◾『実無限』と『可能無限』
『実無限』寄せ集め解釈、線分には無限個の点がすでに存在していると考える。無限のものがそこにあるのだと考える立場からとらえられた無限。
『可能無限』切り口解釈、あくまでも可能性としての無限しか考えず、線分を切断すれば点がいつまでも続けて取り出せ、その可能性こそが無限であり、その可能性だけが無限だと言う。可能性としてのみ考えられるとされる無限。
大理石を彫るみたいなもの。大理石の塊から彫刻を彫るとき、その彫刻はすでにその大理石のうちにあったのでしょうか。これはつまり、取り出すのではなく、作り出すわけですね。埋まっているものを拾いだすのではなく、作るのです。
◾次元の崩壊
直線と平面は濃度が同じ。一次元も二次元もないというわけです。一対一対応で集合を比較するというのは穏当な筋に思えたのですが、ひとたびその路線に入ると、こんな激烈な結果が待っていた。同じようにやれば二次元と三次元も濃度が等しいことが示せます。四次元だって、五次元だろうが三千次元だろうが同じ。一対一対応という基準の前には、次元の差異は崩れさってしまうのです。
◾一対一対応。
◾ベキ集合っていうのは、部分集合の集合で、部分集合っていうのは、ある対象の集まりをさらに細かくさまざまに概念化して分類すること。だから、ベキ集合はそうした概念化の可能性の全体というわけだ。
つまり、無限ていうのは、対象がたくさんあるということよりも、むしろそれを概念化して捉えるときに開けてくることなんだ。
目の前の対象を概念化するだけでなく、その概念をも対象化してそれをまた概念化する。そうしてカントールは思考の世界で無限の階段を孤独に登りつめてしまった。
◾『AかAではないかどちらかだ』=『排中律
『ハイチューリツ』。この、排中律が認められるか否かということは、その対象を実在のものとみなしているか実在せぬものとみなしているかの基準となります。そして、直感主義は、無限に対して非実在者としての態度をとり、その結果無限が関わる領域では排中律を拒否するのです。注意してほしいのですが、一般的に排中律を拒否するわけではありません。実在するもの、有限なものに対してはかまわない。だだ、無限ががからむと拒否します。
直感主義は無限を人間の思考の産物だと考えた。だから排中律は成り立たない(ブラウアー)。
ヒルベルトの公理系とは、何が何を意味するといったこと、それゆえ真理とか虚偽といったこととはいったん切り離された、内容をもたない記号計算のゲームなのです。
内容を切り捨てて形式だけを問題にするから『形式主義』。
形式主義というのは、形式化され鈍化された公理系とその無矛盾性·完全性を証明するメタ数学の二本立てを提唱するのです。そうすると、どうなるか。
排中律がよみがえるのです。
◾『ヒルベルト·プログラム』
形式主義の二本柱。無限集合論を形式的な公理系として整備すること。それに対して無矛盾性と完全性を有限の立場のメタ数学で証明する。
➡️ゲーデル不完全性定理で頓挫。

ゲーデル不完全性定理

第一不完全性定理ーー無矛盾で完全な自然数論の公理系を作ることはできない
第二不完全性定理ーー有限の立場のメタ数学では自然数論の無矛盾性は証明不可能

ゲーデルはガチガチの実在論者。ゲーデルにすれば、数学はいささかも無内容なゲームではなく、有限の立場からのメタ数学などもよけいなお世話。自然数論とは、実在論者にすれば、実在する数の世界の秩序を人間が部分的に記述したものにほかならない。それを公理系として一望のもとにおさめようなどとしても、不完全になるにきまっている。
『メタ数学を自然数論の中で表現できるのではないか』
みている自分(メタ数学)を見られた自分(自然数論)の中に埋め込む。
自然数論の対象は自然数、メタ数学の対象は自然数論の式·式変形·証明。扱う対象が違うため、メタ数学の表現を自然数論の公理系の式として翻訳する手引きが作られた(➡️『ゲーデル数化』)。そうすると、メタ数学における『証明できる/できない』という表現が、自然数論上の性質として翻訳されうることになる。
メタ数学を自然数論に翻訳すると、果てしなくメタに進んでいく自己運動みたいなものが生じる。
『自己言及的証明不可能性』
対角線論法。対角線上に自己言及文が並ぶ。それに「証明不可能」という概念をあてはめて文を作っていく。すると、その文が並ぶ横線と対角線の交点Gは、「証明不可能」という概念から成る自己言及文になる。つまり、「私は証明できない」。これがGだ。
肯定と否定が一致すると矛盾だけど、Gと『Gは証明できない』が一致すると、必ずしも矛盾ではなくて、こんどは不完全性がでてきてしまう、というわけだ。

G=「Gは証明できない」
➡️①真➡️主張のとおり➡️Gは証明できない
➡️②偽➡️主張は否定される➡️Gは証明できる

①は不完全(自然数論の公理系が真なのに証明できないものをもつ)。②は矛盾(Gは証明でき、かつ、証明できない)。無矛盾で完全な公理系の夢は、ここについえました(第一不完全性定理)。
背理法の過程として、自然数論の無矛盾性が証明できたと仮定すると②が消去される。完全で無矛盾な公理系は作れず、完全性か無矛盾性か、どっちかを諦めねばならない。不完全でもいいから無矛盾な公理系を作りたい➡️①。メタ数学において無矛盾性が証明されるということは、①が自然数論の中で定理として証明されることを意味。

G=『Gは証明できない』 が証明される
➡️Gが証明される

②と同じで、Gは証明され、かつ、証明できない、矛盾。
つまり、自然数論の無矛盾性が証明されたと仮定するならば、矛盾が導かれ、この仮定は却下。自然数論の無矛盾性を証明することはできない。きちんというならば、有限の立場のメタ数学では自然数論の無矛盾性を証明することは、不可能なのです(第二不完全性定理)。

感性の限界

◾カント「純粋実践理性の根本法則」
「君の意思の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」
◾アンカリング
私たちが実生活で目にする「セール価格」や「希望小売価格」はもちろん、「先着一〇名様」とか「在庫残り五個」といった数値も、すべてアンカーなのです。
いったんこれらの数値が頭に入ると、その後の交渉や意志決定は、すべてそのアンカーが軸として回転。カーネマンとトヴェルスキーの国連実験で明らかとなったように、それがランダムな数値であってさえ、大きな影響を与えるのです。
◾二重過程理論「一つの脳内に二つの心が共存している」
「分析的システム」=「自己」、言語や規則に基づく処理を行い、意識的に刺激を系統立てて制御している。
「自律的システム」=ヒューリスティックなモジュール型のシステムで、刺激を自動的かつ迅速に処理し、意識的に制御できない反応を引き起こす。
「自律的システム」の決定を「分析的システム」は制御できない。
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界(1819)』
世界は「私」の表象であり、その根底は「盲目的意志」に支配されている。この「盲目的意志」は、飽きることなく永遠の欲望を抱き続け、そのため人間は苦悩の連続に陥らざるをえない。
ショーペンハウアーもハルトマンも、さらに彼らに続いて「力への意志」を説いたニーチェにとっても、「意志」とは本質的に非合理で目的を持たない実存的主体。
◾スタノヴィッチの二重過程理論によれば、ヒトの脳内の「自律的システム」は遺伝子の利益を優先し(その為に「利他的行動」を取る)、「分析的システム」は個体の利益を優先していると解釈できる。
◾「天動説」から「地動説」のように、進化論においても、「個体中心説」から「遺伝子中心説」へ向かう科学革命が必要なのです!
◾個体を優先する「分析的システム」が、遺伝子を優先する「自律的システム」の命令に逆らうことができるかどうかによって、具体的な対応がことなってくるわけです。
◾スタノヴィッチ「ロボットの叛逆」
「私たちはロボットーー複製子の繁殖に利するように設計された乗り物ーーかもしれないが、自分たちが、複製子の利益とは異なる利益を持つということを発見した唯一のロボットでもある。私たちは、まさしく、SF小説に登場する脱走ロボットーーみずからを創造した存在の利益より、みずからの利益を優先させるロボットーーである」
◾仮に世界があまりにも「決定論的」だったら、それは単純で退屈でつまらなかったでしょうし、世界があまりにも「非決定論的」だったら、すべてが複雑で混乱してメチャメチャだったでしょう。
◾「カント·ミーム
ドーキンスの造語で「非遺伝的な複製子」。「コミュニケーションをする複雑な脳によって用意される環境だけで繁栄する」複製子であり、「脳から脳へ伝達される最小単位」の情報ともみなされる。ミーム=世代間で受け継がれる。
サルトル「実存=現実存在」「実存は本質に優先する」本質は後付け。
カミュの不条理への対処法、第二の方法は「盲信」で、これは不条理を超えた何らかの「理由」を信じること。「科学的あるいは合理的な理由」「全知全能の神が与えた試練」とみなす。「本質」を「実存」に優先して信じる方法であるが、そのような「本質」があるという根拠はなく、カミュはこのような盲信を「哲学的自殺」とみなして否定している。
◾ファイアアーベントが「科学」を「最も新しく、最も攻撃的で、最も教条的な宗教的制度」と呼んだのも、それが人間の「盲信」を導くからだった。
◾第三の方法は「反抗」。世界が「不条理」であることをそのまま認めて、あらゆる真実を包括するような科学的、合理的あるいは宗教的な「本質」も存在しないことを理解し、さらに人生に意味がないことを受け入れ、そのうえで「反抗」するという方法で、これをカミュは「形而上学的反抗」と呼んでいます。

無とは何か

Newton別冊『無とは何か』

Newton別冊『無とは何か』

◾ミクロな世界の物理学である「量子論」によれば、たとえ完全な真空であってもミクロな視点で見ると、そこは「ゆらぎ」に満ちているといいます。そして、そのゆらぎによって真空は“完全なる真空”ではいられず、ある瞬間に粒子と反粒子(もとの粒子と電荷などの正負が反対で、質量などのほかの性質が同じである粒子)のペアが生じて(対生成)、すぐに消える(対消滅)、ということがたえずおきているというのです。
◾「エキピロティック宇宙論」のもとになったのは、「ブレーンワールド」という仮説です。私たちが認識している3次元の空間の宇宙は、より高次元の空間(6,7次元、3次元とあわせて9,10次元)に浮かぶ膜(ブレーン)のようなもので、3次元の膜の中にいる私たちは、“外側”の高次元世界を感じることができない、と考えるのです。
ブレーンワールドの仮説によると、高次元世界に浮かんでいる膜が一つである必然性はなく、エキピロティック宇宙論は二つの膜どうしがたがいに接近·衝突したときに、宇宙が高温·高密度の状態(ビッグバン)になり、膨張していくという仮説です。
◾「ホログラフィー原理」によると、2次元でおきるある現象と、3次元でおきる別の現象を同じ(等価な)ものとしてあつかうことができます。つまり、高次元でおきる現象は、低次元でおきる現象の“ホログラム”だととらえることもできるわけです。
ホログラフィー原理をもとにした仮説によると、この宇宙は、2次元平面上に“書かれた”情報から“投影”されたものである可能性があるといいます。

知性の限界

◾「強い人間原理」は、宇宙は、その進化の過程で、「必然的」に内部に知的生命が存在できるようにしているという考え方です。つまり、さまざま物理法則や物理定数は、どこかの段階で人間のような「観測者」を生みだすように「微調整」されていると······。
最近では、宇宙そのものが観測者を生みだすように「自己組織化」しているのではないかと考える宇宙物理学者も増えてきています。
◾形のあるものを探究するのが「形而下学(physics)」で現在の物理学に相当し、形のないもの(物質としての脳ではなく「心」の問題、自然現象としての宇宙ではなく「存在」の意味、あるいは「神」の存在の証明など)を探究するのが「形而上学(metaphysics)」なのです。

武道的思考

武道的思考 (筑摩選書)

武道的思考 (筑摩選書)

◾武道が想定しているのは危機的状況。自分の生きる知恵と力のすべてを投じないと生き延びることができない状況。
「競技」が想定するのはアリーナの中での「試合」。武道が想定するのはそのアリーナにいきなりゴジラがやってきて、観客席が踏み崩されるような状況をどう生き延びるかという問題。
人が多い所へは行かない、断片的情報から現状を適切に推理する力、信頼できる人を見当てる力、等生きる知恵と力は単一ではなく、他者と比較考量するものではない。
「生きる知恵と力」とは「生き延びるチャンスを増大させるもの」をいかに多くすることができるか。他の人にとって役に立たないことが自分には役に立ち、意味があると思えるということ。他の誰によっても感知されないような意味を世界から引き出すこと。疎遠な世界を親しみに満ちた世界に書き換えるということ。人には見えないものが見える。
◾澤庵禅師「天地未分、陰陽不到の処に徹し」
非分節的世界に分節線を引き、そこに意味を贈与、世界に深く踏み込んでゆく仕事は、他の誰によっても代替され得ない。そのようにして、自分で分節した世界だけが私達の本当の居場所。
◾兵士は「消耗品」のため、戦前の強兵の錬成のための武道教育では、中世以来洗練されてきた伝統的な身体文化のうちもっとも枢要な部分が排除されていた。それは、人間の蔵する生きる知恵と力を開花させ、潜在意識レベルでのコミュニケーション能力を開発する技法、呼吸法、瞑想法、など心身錬磨の技法である。
◾スポーツでは「勝ち負け」や「数値」や「記録」といったデジタルなデータが一次的に重要である。「なまもの」としてのアナログな身体にはあまり用がない。だから「スポーツをやって身体を壊す」ということが起きる。「健康法を実践したら病気になった」とか「長寿法をやったら早死にした」ということは笑い話ではなくて身近に無数の実例があるが、それは身体「そのもの」ではなく、身体の「出入力」を優先的に配慮することの必然である。
◾総じて、どのように生きたいのか。どのように死にたいのか。生きることにかかわるさまざまな「訴え」を高い精度で感知するための技法が武道である。
◾武道は「先駆的な知(生き延びる力)」の開発のための技法体系である。私たちはそれを「気の感応」とか「気の錬磨」というふうに呼んでいるのである。
◾道具を介して「外界とのなめらかなインターフェースを立ち上げる」という技術はきわめて汎用性が高い。剣や杖(木の道具を自分の身体の一部分のように感じとることの難しさを実感するためにひたすら振る稽古をする)、体術においての相手の身体、家事においての雑巾や鉈でも。
家事労働を「できるだけしないですませたい不払い労働」ととらえる風潮の中で、家事労働もまた万有と共生するための基礎的な身体訓練の場であるという知見は顧みられなくなった。
それでも関川さんが書いているように、今も幸田文の本が途絶えることなく読み継がれているのは、その家事労働についての知見が失われるべきではないという「常識」が私たちの間にまだかろうじて生き延びているからだろう。
◾他人の技を批判してはいけない、と多田先生に教えていただいたことがある。「他人の技を批判しても、自分の技がうまくなるわけではないからだ」
◾「世界が私のような人間ばかりだったらいいな」というのが人間が自分自身に与えることのできる最大の祝福である。
◾資本主義市場経済と消費文化の中で解体した中間共同体の再構築は私たちの喫緊の市民的課題。道場がその語の厳密な意味における共同体であるためには、そこでは「多様性と秩序」が同時に達成されなければならない。
多様性と秩序は矛盾するわけではない。
多様でなければ、システムは生成的なものにならないが、秩序が保たれなければ多様なもののうち「弱い個体」は適切に保護されない。
◾「道場は楽屋であり、道場の外が舞台である」
◾武術の稽古を通じて開発される能力のうちでもっとも有用なものは間違いなく「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する」能力。
◾強く念じたことは実現する。これはほんとうである。「強く念じる」=「細部にわたって具体的に想像する」。
想像したことが実現するのではない。想像していたからこそ、実現したことがわかるのである。真理というのはあらかじめ存在するのではなく、構築するものなのである。
人間がその心身のパフォーマンスを最大化するのは、「私はいま宿命が導いた、いるべき場所、いるべき時に、いるべき人とともにいる」という確信に領されたときなのである。
◾対立があるときの方がないときよりもシステムは活性化する。「弁証法」と呼ばれるのはそのプロセスのことである。活性化ということに焦点を当てて考えると、ある能力や資質を選択的に強化しようとするときには、それを否定するようなファクターと対立させると効率的である。
◾「序·破·急」の動き。一教の切り落としを三工程に分けて、円転·直線·円転と運動の質を切り替える。「序」は「順序」、「急」は「速度」で度量衡が違う。古人が「徐·破·急」を退けて、「序·破·急」の語を用いたのは、「破」によって度量衡そのものが切り替えられる消息を伝えたかったからではないか。
◾「同じルーティンの繰り返し」をしていると、わずかな兆候の変化から、異常事態に気づくことができる。命を守る上でも知的イノベーションを果たすためにもとても大切。
哲学者の哲学者性とは、自己の脳内における無数の孝想の消滅と生成を精密にモニターする能力に帰す。
ルーティンの最たるものは「儀礼」である。
つねづね申し上げているように、だから家庭は儀礼を基礎に構築されるべきなのである。愛情と共感はおまけ。
◾「武士は用事のないところにはゆかない」
用もないのにフラフラ出歩いて、トラブルに巻き込まれたり、怪我を負ったり負わせたりすることは武士道に悖る。
「武道的」というのはぎりぎりまで削ぎ落とされた合理性。使えるものは何でも使う。無用なことはしない。生き延びるチャンスを高める選択肢はためらうことなくつかむ。心身のパフォーマンスを下げることはしない。

ゆらぐ脳

ゆらぐ脳

ゆらぐ脳

◾肯定的な態度を取った時は、その時見ていた周辺のものも好きになる。
私たちは、好悪や快不快の感情がまず自分の心に生まれて、意思や行動が決定されると思いがちだが、実際には態度や体の姿勢、顔の表情によって感情は左右される。心から体ではなく、体から心。
◾「複雑系」「部分の総和は全体にならない」
音楽は、ただの「音の集合」ではなく、よせ集め以上の「存在」。この意味で音楽は脳と同じ「複雑系」。
◾「分かる」=「名前をつける」
人間は名前を知りたがり、つけたがり、そのことで「分かった」と思いたがる生き物ではないだろうか。
◾この「活動依存的」(自分の活動に影響される)はポイントで、つまり、「脳はやわらかく、自分で自分を書き替える」ということにつながる。
脳の神経細胞には「可塑性」(変形させたらもどらない性質)があり、自分の活動を参照しながら、どんどん、自分を書き替えてゆく······これを私は生命の本質だと捉えています。
コンピュータに「自分」がないのは自分を自発的には書き替えないからでしょう。
◾「合理主義は非効率的」
一見関係のない重要なものは専門分野以外にもある。目的以外を捨ててしまう「合理主義」は、突き詰めたら「自分の分野の知見」と「異なる分野の知見」の間の「つながり」や「派生」に気づけない=「発見」がなくなる。
◾情報はタマネギのよう。実体を追って剥ぎ過ぎると無くなる。気になったものを実際に調べると中身が失われていく情報は多い。複数の有効成分のコンビネーションで効き、何が効くのか科学的に分解すると効かなくなる漢方薬と同じ。
◾「人生の目的は過去から受けついだ遺産に何か『新しいもの』を加えて未来に継承すること」武者小路実篤『人生論』より。
◾「『違いが分かる』とは大脳皮質のその領域が拡大していること」。「違いが分かる」とは、よいものを知っている、ではなく、何がどうよいかを知っていること。よいものを知るには、そうでないものも知る必要がある。どんなにつまらないことでも無意味な経験はないということ。
◾発見は「視点が増えること」で生まれるものではないか。
◾「入力と出力を比較して、中間の演算の形式を知ること」
は、サイエンスの直球の方法ですけれど、自発活動の「ゆらぎ」の研究で分かることは、
「同じ入力でも、毎回同じ出力がなされるとは限らないこと」
なのです。脳では演算形式自体がゆらぎ、演算の姿形が変化。
 私は、この「同じ入力に同じ出力が対応するとは限らないこと」にこそ、脳独特の「やわらかさ」があると考えています。脳は「安定」してしまったらダメで、つまりフラフラと揺らぎのあることが重要なのではないかという方向で私は研究を進めているのです。
◾現時点での私の成果の一つは、神経回路の「構造」に近いものを作りだせたということです。数学者のアラン·チューリング人工知能の評価の基準に「相手が見えない状況で、会話をした時相手を人間と区別できないのならそれを、知能と呼んでいいのでは」と言いますけど、私の作る「構造」は「ノイズを入力したら神経細胞の生命活動に近い出力が出てくる」ものです。
 脳のゆらぎは「ほどほど」のフラフラした状況を生みます。どの刺激にも「ほどほど」のワクの自発活動に留まるようにプログラミングされている······それなら、どんなノイズを入力しても自発活動の「ゆらぎ」のワクに近いものを出力する構造を作りだせたら、チューリング的な意味で「生命と呼んでいいもの」になるのではないかと考えて、そのような構造を作りだすことに成功しかけているのです。
◾海馬は記憶だけでなく未来予測の為にも必要な部位であり、「記憶がなくなれば、未来の予測ができなくなる」。記憶は未来予測を正確に行う為に生まれたと推測できる。
◾「帰納法
列挙されたモノに共通する現象を捉えて「一般化」する思考の飛躍。十個入りの卵を九個割って全て腐っていたら、最後の一個も腐っていると考えることは普通であり、これが「帰納法」。最後の一個は腐っていないかもしれない。帰納的推論には「正しさ」は担保されていない。
仮説はその正しさを証明することはできず、出来ることは間違いを指摘すること(「背理法」)のみ。
「真実が明るみになる」=(1)帰納法により仮説をたてて、(2)その反例を見出して「仮説は間違っている」という事実を証明すること。
帰納法によって立てられた仮説(すべて帰納法で立てられる)は、「否定」はできるが、「肯定」はできない。