ダフォディルの花

◾してみると、まことの神とは過去を懐かしんで嘆いたりはせず、あらゆる瞬間に世界の生きた美を喜ぶものなのだ。
◾ーーただこれは神の究極の秘密のひとつ、崇高な啓示が千たびも翻訳に翻訳を重ね、言葉で言い表せる次元まで“下って”きたようでもあった······。
◾頭上でざわめく松はなにかを伝えようとしているように、岩々は親しげにこちらを見守っているように思われ、彼はそれらと心を通わせた。爾来彼は大詩人になったと言われている。
◾この人々にとって、絵は目に見える詩であり、〈道〉の徵、魔法、そして命の歓びと驚異という神秘であった。
◾龍を見ることは、荘厳で畏敬の念を抱かせる音楽が突然耳に鳴り響くようなものだった。
◾「この聖なる龍にものが見えるようになったら、ここには支配者たる龍を満足させられるものなど何もなく、龍は安らぎの地を稲妻の遊び場に求めようとするだろう」
「どうしてそんなことがあり得るのでしょうか。この龍は確かに美しくはありますが、色素の形作る似姿でしかありません。そのような似姿が空高く舞い上がるでしょうか。師はこの惨めな者をだしにして喜んでいらっしゃる」
「そうではない。お前はまだ芸術の奥義がほとんど判っていない」
◾シダは自分たちが静かだから、ひとにもそう言う権利はあるし、なによりも、小うるさい、大人が上から話すような感じではなく、言葉にできない内緒の知識を分けてくれようとしているようだった。
◾彼の運命は彼自身の手のなかにあったが、選んで破滅を自らの運命としたのだ。
彼自身のほかに彼を救える者はいない。
◾静寂を破って音楽が溢れだし、王は宇宙とそのからくりの一切を歌として理解した。足下の大地も、樹も、きらめく大海も、太陽も、自らの存在も、いっさいが倍音と反響であり、ひとつの旋律をなす遥かな脈動にして究極の振動にほかならなかった。
王は中心よりあふれだす歌の流れであり、流れに浮かぶ泡が目に見える世界、底流をなすのは存在するものの意識だった。
◾あらかじめ承知し、予期していたことがいざ起きてみると苦悶をもたらすというのはおかしなものだ
◾しかし、何が自分を悩ませているのかが判らなかった。問題を明確に表現することができない。
いや、いつの日か、その問題に手が届き、把握できるようになるだろう。
星々が海に沈むたびに成功へと近づいていた。確かに近づいていた······
◾言葉のうえでは教会の呪詛のなれの果てを唱えながらも、そこには美への信仰と世界の救済への渇仰があふれていたーーかれのなかに己を顧みぬ神を育てた森の魂が、ひとびとの集うところに降臨し、人間の思考のうちに顕現し、力を得て栄えるようにと······
◾「詩は、それが詩であるほど、人間の中の神性が語るものだ」
そしてモリスが詩の三つの基礎とみなすものは視覚(色彩)と聴覚(音楽)、そして「力」になぞらえられる文体/形式である。これらの要素はモリスの散文にも容易に感じられるだろう。