「身体」を忘れた日本人

◾昔は人間関係で補償していたものを、いまは全部お金に替えていっていて、それをやっているのが保険会社なんです。変な言い方ですけど、保険会社にとっては、いわゆる世間の絆ってものをどんどん切っていって、一人一人の流民になっていったほうがいいんですよ。
僕は、保険会社と世間の絆の関係は、保育園と母親の関係によく似てると思います。つまり、保育園を充実感させていくと母親がいらなくなるんです。
◾虫採りもそうですけど、アファンの森みたいなところに来て得るものって、実は言葉にならないんですよね。だからそれを説明しろっていうのが一番困る。だから、「何でもいいから、ともかく自然の中に行け」と言うんです。「気分が変わるだろう?」「おなかすくだろう?」って。
◾だから、人間の世界のプラスとマイナス、自然のプラスとマイナスの4つがあるはずなんだけど、自然の分がなくなって、人間世界のプラスとマイナスだけになっちゃったから、プラスもマイナスも2倍になっちゃったんです。
そういう狭い世界を子どもにに与えちゃってるのは、ほんとうにかわいそうだと思って、僕は、子どもの相手をするときは必ず外に行くんです。もうそれしかしてない。
◾「感覚は違いを識別するもの」
感覚は、根本的には違いを発見するもの。
動物は感覚で世界の違いをみる段階にあり、絶対音感を持つ。人は絶対音感をなくしていく、感覚を無視するようになっていき、言葉や概念、「同じにする」能力が発生。
感覚が「違う」「違う」といい続けるのを、意識の「同じにする」能力が押さえつける。それが、我々の脳が初めから持っている一種の矛盾なんですね。
◾つまり、視覚が聴覚を理解するためには「時間」という概念が必要だし、聴覚側が視覚を理解するためには「空間」という概念が必要だったんです。だからカントが、時間と空間はア·プリオリだって言ったんですよ。
言葉の前提はその二つで、目と耳が折り合うために発明されたんです。目が捉えている情報と、耳が捉えている情報は違うということですね。
動物には言葉がなく、概念というものがない。大脳が小さいから、その中で両方をつなぐ余地がないんです。だから、目は目、耳は耳。風景は風景、音は音。
◾言葉は、目と耳を共通にしなきゃいけない。言葉って言うのは、目で文字を読んでも、耳で音を聞いても、同じ言葉として通じますね。つまり、目と耳を同じに使う必要があるんですが、これはすごく変なことですから、約束事が必要です。だから、後天的に教えるしかない。
◾西洋風の階層構造では、一番上にくるのは、唯一絶対の神様。これは下の階層の違うものを全部含むんです。日本は逆で、八百万の神だから、一番下の階層が神様です。世界のあり方が、ちょうどひっくり返った関係になっている。
◾「天下無敵」=「天下に敵がないっていうこと(内田)」、つまり、全員を見方にしちゃう。それが武道の理想なんです。
◾脳が身体を動かします。しかし、同じくらい重要なのは、身体もまた脳を動かすということなのです。