脳あるヒト 心ある人

◾生きていくのに食べものはどうしても必要で、それが美味しく食べられたら、人生の基本問題は解決である。それ以上、何を望むというのか。
◾自分を変えない知識には、あまり意味はない。
逆に言えば、学ぶなら、自分が変わるまで学びなさい、ということである。学んでも相変わらず同じ世界に住んでいるなら、学んだことになっていない。
◾若者が自分で悩むのは、年配者が自分を失ったからである。どういうことか。社会的役割を、自分だと混同する大人が増えたからである。
◾言葉でないものが大きな意味を持つ。そういう世界を私はむしろ豊かだと思っている。そこから言葉が「生まれてくる」のであって、言葉が世界を規定しているのではない。でもどれだけの人が今ではそう思うのだろうか。
◾言葉に定義なんてない
それぞれがそれぞれなんだけれども、そのそれぞれを共感できるように書く。そうなると、言葉が生きていなければならない。
言葉は文脈に依存し、さらに広い意味では状況に依存する。
現代は言葉が優越する世界である。だから言葉は大切だが、それにあまり頼ると危ない。
◾言葉になる以前のもの
目に見えない、言葉にならないものよりも、目に見え、言葉になるものを、人は、より信用する。
言葉以前のものを感じるか感じないか、夜の闇を内に持っているか否か。
◾異なる、ということを認めないと始まらないことがある。共通だと信じることで齟齬が生まれる。
◾ちゃんとした物語ができると、実際に観察した多くの事実が、新しい意味を帯びて、びっくりするほどきちんと整列してくれる。「わかった」というのは、実はそのことである。その醍醐味を追いかける。それが科学だと私は思う。
◾彼らの言葉は彼ら自身を語っているに違いない。
◾「私」は、「私」を超えた思考回路をなかなか持ち得ない。
◾自分の身が修まって、それから家の中がおさまる。
◾「できない」がその人らしさ
植物博士になったから靴を履かないのではなく、靴を履くことを選べないから、そのような職に、きっと就いたのだ。
森のそばに住んでいた幼少期、森には入ることが大好きだったという博士は、好きなことを仕事にしたというよりもむしろ、苦手なことを避けまくって今の自分になったのだろう。
◾形を「写す」教育
昔の人「盗め」、「親の背中」。中身ではなくやり方·考え方を教わる。考え方だから教わりようがなく、「写る」「移す」しかない。それはある種の形である。

◾誰がやってもいいことを、髪を振り乱してやるくらいなら、私しかやらないようなことに、髪を振り乱して取り組むほうが、精神的に楽だ。
◾都会はいわば脳の中
◾そんな人は地獄に落ちると言われたって、余計なお世話だと言いたくなる。地獄に落ちるのは私であって、それなら他人にあれこれ言われる筋合いはない。あんたは勝手に天国へ行けばいいじゃないか。
◾本や小説は、あるいは自由や特権や、健康や幸福は、ぜんぶぜんぶ身体に勝つことができない。