「空気」の研究

◾従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。
◾従って多くの人のいう科学とは、実は、明治的啓蒙主義のことなのである。しかし啓蒙主義とは、一定の水準に“民度”を高めるという受験勉強型速成教育主義で、「かく考えるべし」の強制であっても、探求解明による超克ではない。従って、否定されたものは逆に根強く潜在してしまう。そのため、現在もなお、潜在する無言の臨在感に最終的決定権を奪われながら、どうもできないのである。
◾「...だがそれは無知じゃない。典型的な臨在感的把握だ、それが空気だな」
◾記者たちは、イ病の悲惨な状態を臨在感的に捉え、そう捉えることによって、この悲惨をカドミウム金属棒に「乗り移らせ」(すなわち感情移入し)、乗り移らせたことによって、その金属棒という物質の背後に悲惨さを臨在させ、その臨在感的把握を絶対化することによって、その金属棒に逆に支配されたわけである。絶対化されているから、この際、自分と同じ人間がその金属棒を平然と手にしていることは忘れられる。これは人骨処理でも同じである。従ってこの図式を悪用すれば、カドミウム金属棒を手にすることによって、一群の人間を支配することが可能になるのである。言うまでもなくこれが物神化であり、それを利用した偶像による支配であるが、明治以来の啓蒙され“科学化”された現代人は、これを「カドミウム金属棒の振りまく」「その場の空気」に支配されて、思わずのけぞったり逃げ出したりした、と表現するわけである。もちろんカドミウム金属棒は一例にすぎず、対象は前述した自動車でも、またその他のどんな物質でも可能であり、昔の人の表現を借りれば、「イワシの頭」で十分なのである。
◾神という概念は、元来は「恐れ」の対象であった。多くの神社は、悲惨を体現した対象がその悲惨を世にふりまかないように、その象徴的物質を御神体として祭ってなだめている。従って、カドミウム金属棒を御神体とする「カドミ神社」の存立は可能である、というよりむしろ、ある「場」はすでに存立したのであり、昭和の福沢諭吉は、それが御神体ではありえないことを証明するため、ナメてみせたわけである。

◾言い換えれば、双方を「善悪という対立概念」で把握せずに、一方を善、一方を悪、と規定すれば、その規定によって自己が拘束され、身動きできなくなる。さらに、マスコミ等でこの規定を拡大して全員を拘束すれば、それは、支配と同じ結果になる。すなわち完全なる空気の支配になってしまうのである。さらにこれが、三方向·四方向となると(日中国交回復のときは、大体、四方向の対象の臨在感的把握の絶対化に基づく四方向支配と私は考えている)もうだれも、その「空気支配」に抵抗できなくなるのである。
問題克服の要点➡️臨在感を歴史館的に把握しなおす、対立概念による対象把握

◾これらの部門は、元来、専門家が科学的根拠だけで決定すれば、「大過ない」決定になるはずだが、それさえ結局、全く奇妙な「空気」の決定になっている。こうなると、これらより格段に「データ」と「空気」の誤差がわかりにくい部門となると、「意志決定はすべて空気に委ねる」が、「それが何らかのデータに基づいているように見せる」のが実情であっても不思議ではない。ただそれが、明確につかみにくいだけである。

◾空気=ルーア(ヘブライ語)の訳語がプネウマ(ギリシャ語)でそのまた訳語がアニマ(ラテン語)。このアニマから出た言葉がアニミズム(物神論?)。
宗教的狂乱状態、ブームによる集団的異常状態の現出は、この空気(プネウマ)の沸騰状態によるとされている。
彼らは霊(プネウマ)といった奇妙なものが自分たちを拘束して、一切の自由を奪い、そのため判断の自由も言論の自由も失って、何かに呪縛されたようになり、時には自分たちを破滅させる決定をも行わせてしまうという奇妙な事実を、そのまま事実として認め、「霊(プネウマ)の支配」というものがあるという前提に立って、これをいかに考えるべきか、またいかに対処すべきかを考えているのである。

◾大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう。

◾これがすなわち相対化であって、あらゆる命題が自らのうちに矛盾を含み、その矛盾を矛盾のままに把握するとき、はじめてその命題が生かされ、絶対化すればそれはヨブにおけるような逆用を生じ、命題そのものが実際には失われてしまうということなのである。
◾だがこの相対化の原則は、人間が人間である限り、二千数百年前も現代も変わらないのである。一つの命題、たとえば「公害」という命題を絶対化すれば、自分がその命題に支配されてしまうから、公害問題が解決できなくなる。「差別」という命題を絶対化すれば、自分がその命題に支配されてしまうから、差別という問題を解決できなくなる。これが最もはっきり出てきているのが太平洋戦争で、「敵」という言葉が絶対化されると、その「敵」に支配されて、終始相手にふりまわされているだけで、相手と自分とをみずからのうちに対立概念として把握して、相手と自分の双方から自由な位置に立って解決を図るということができなくなって、結局は、一億玉砕という発想になる。そしてそれは、公害をなくすため工場を絶滅し、日本を自滅さすという発想と基本的には同じ型の発想なのである。そして空気の支配がつづく限り、この発想は、手を替え品を替えて、次々に出てくるであろう。

◾情況倫理という日常性は、否応なくここへ行きつき、ここに到達して一つの安定をうる。「一人の絶対者、他はすべて平等」の原則。
◾この点、情況倫理とは、集団倫理であっても個人倫理ではなく、この考え方は、基本的には自由主義とも個別主義とも相いれない。そしてそういう意味では、一種の「滅私的平等」の倫理であり、そのことは「オール3」という評価法にそのまま表れている。

◾何かを決定し、行動に移すときの原則
それは「『空気』の研究」で述べたとおり、その決定を下すのは「空気」であり、空気が醸成される原理原則は、対象の臨在感的把握である。そして臨在感的把握の原則は、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化であり、対象への分析を拒否する心的態度である。従ってこの把握は、対象の分析では脱却できない。簡単にいえば石仏は石であり、金銅仏は金と銅であり、人骨は物質にすぎず、御神体は一個の石であり、天皇は人間であり、カドミウムは金属であると言うことで、これから脱却し得ない。もちろん、一見脱却したかの如き錯覚は抱きうる。だがそう錯覚したときその者は、別の対象を感情移入の対象としたというだけ、簡単にいえば「天皇から毛沢東へ転向した」というだけであり、従って何らかの対象が自己の感情移入の対象になりうる限り、言わば、偶像すなわちシンボルと化すことができうる限り、対象の変化はあり得ても、この状態からの脱却はあり得ない。
多くの人は、明治において過去のシンボルを捨てた。そして捨てないものを旧弊とか頑迷個陋(ころう)とかいって罵倒した。しかしそれは、罵倒した人がその状態を脱却して、新しいシンボルへの臨在感的把握をしなかったということではなく、その逆、すなわち直ちに新しいシンボルを臨在感的に把握し、そのシンボルとの間で「文明開化」という「空気」を醸成したというだけである。

◾結局いずれの場合であれ、その絶対者に対して、他のすべてのものは平等となる。これは宗教的回心の当然の帰着であり、絶対者が回心を“差別”する存在ではあり得ず、キリスト教的に言えば「主にある兄弟姉妹」でなければならない。この関係は明治も戦後も同じであり、違いといえば、戦後の絶対者は民主主義であり憲法であったと言うことだけである。従って民主主義と憲法の日本における定義は、たえずそれを改訂し、改訂しうることを民主主義の原則とする西欧の伝統的の定義と同じではあり得ない。
◾二·二六事件の将校は、天皇を臨在感的に把握していたから、それを仏像の如くに見なしており、従ってこの天皇が詩文の意志をもち、一つの機構を支配していると実感したとき、仏像が口を利いて自分たちを断罪したように驚いている。驚くのも無理はない。臨在感的把握の対象は、自分の方から一方的に感情が移入できる「偶像」であらねばならず、それ自体が自らの意志をもって行動されては、その対象になり得ない。すなわち、「水を差す」通常性がもたらす情況倫理の世界は、最終的にはこの「空気支配」に到達するのである。
◾「空気」の永続化
「水」という現実の指摘、「一君万民」「一教師·オール3生徒」の「父と子の隠し合いの真実」という体制。各人が内心でどう思おうと、それを口にしないことが正義と真実。「事実を相互に隠し合うことの中に真実がある」。
◾「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」「虚構の支配機構」。
◾簡単にいえば、舞台とは、周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況倫理の場の設定であり、その設定のもとに人びとは演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって、一つの真実が表現されている。
◾だが「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況倫理が設定されている劇場という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で“空気”を醸成し、全体空気拘束主義的に人びとを別世界に移すというその世界が、人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になることは否定できない。従って問題は、人がこういう状態になりうると言うことでなく、こういう状態が社会のどの部門をどのように支配しているかと言うことである。
◾近代社会はある意味では彼(ルター)とともに始まっており、そしてその改革は、自己の精神を伝統的に無意識のうちに拘束し、それが知らず知らずのうちに通常性になっているものを探求し、その拘束を断ち切ることにあった。新しい自らの改革とは、その作業なしにはあり得ない。
◾「自由」=「水を差す自由」

◾というのはその当然の前提が「現人神のいる世界には進化論はあり得ない」であり、彼にはこの二つが「平和共存」しうる精神状態が理解できないからである。
◾だが、合理性追求の“力”は非合理性であり、その非合理を“去勢”すれば合理性の追求は結局「言葉の遊戯」になり、その遊戯において「言葉の辻褄」は合ってもそれが現実に作動しないことは、宗教改革以来の原則ではなかったのか?もし合理性の論理的追求だけで十分なら、ミュンツァーは存在し得ないし、それは、ピルグリムを、ロビンソンの「神勅」をもってアメリカに押し出す力もなかったであろう。彼らのこの力を、新約聖書以来のゼロータイ的要素ーーそれはエズラに起因するであろうーーと考えるなら、合理性なるものは所詮これへの制御装置にすぎす、合理性自体は、何かを説明はし得ても、何も動かしうるはずがない。
◾というのは「法」はいわば合理性の象徴であり、それは非合理性の“制御”とはなり得ても、それ自体が、何かを改革さすか、あるいは自らを破滅さすかの“力”とはなり得ないからである。
◾それは一言でいえば空気を醸成し、水を差し、水という雨が体系的思想を全部腐食して解体し、それぞれを自らの通常性の中に解体吸収しつつ、その表面に出ている「言葉」は相矛盾するものを平然と併存させておける状態なのである(汎神論(パンディズム)的神征制)。
これがわれわれの根本主義(ファンダメンタリズム)であろう。

◾なせこうなるのか?描写とか図像には思想性はないと人が思い込んでいるからである。ところが描写も図像も一つの思想を伝達しており、ある図像がどのような思想を伝達したかを研究する図像学(イコノグラフィ)という学問もあり、黙示文学もこの観点から「言葉にする連続的な映像の積み重ねによる思想の伝達方法」として研究されねばならないのである。
◾人は、論理的説得では心的態度を変えない。特に画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在感的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。

◾一帯なぜ、キリシタンがいけないのか。その結論は一言でいえば、儒教を基にした日本的序列的集団主義に反するからであろう。個人が「天」と直結することは許されず、個人は常に自己の所属する集団を「天」とし、その集団はさらに上層の集団を「天」とし、人には「二尊」があってはならない、もしそれを認めれば一切の秩序が崩壊するから、キリシタンはいけない。これが彼の結論である。
◾一方われわれの中にも「二人の言」はあったし、今もあるはずなのである。ただ常にそれを意識せず「現人神と進化論」と言われた途端に、この白石的な「天」と「西欧近代思想」との「二人の言」を全く意識していなかったことに気づくわけである。

◾空気の把握
人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、すでに別の位置へと一歩進んでいるのである。人が「空気」を本当に把握し得たとき、その人は空気の拘束から脱却している。